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自分の加害性にきちんと気付く。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
新約聖書 ルカによる福音書 10章30-36節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

悪気は無かったのに、誰かを傷付けてしまった、不用意な一言で悲しませてしまった……という経験はありますか? 残念ながら、私は、結構、あります。なんなら、最近もまた、やってしまった……。(落ち込み)

自分で「あっ、今の、あかんかったな?!」と気付けたなら、まだ良いのでしょう。「ねぇ、今の、あなたにはそういう意図は無いのかもしれないけど、私はすごく傷付く」と相手が教えてくれるのなら、それもありがたいことです。一番怖いのは、傷付けた事実にも気付かず、相手が傷付いたということを知ることもできず、平然とそのままで過ごしてしまうことかもしれません。

最近こんな本が出ました。

タイトルを見ただけで「うわあああああ! ほんまそれえええええ!」と思って予約しました。先日手元に届きましたが、まだ読めていません。(読めてへんのかーい)(でも紹介しておく)(だってタイトルがすでに核心を語っているもの……)

相手を傷付けてしまった時、あるいは相手が「自分は傷付いた」と知らせてくれる時、「やってしまった! ごめんなさい!」とすぐに謝って、その後の言動を改めていけたらいいなと思います。でも、「自分が誰かを傷付けた」ということ、敢えて平たく言えば「自分が悪いことをした」ということは、ちょっと受け入れ難い「痛い」気付きです。それで思わず、「私は悪くない! だって悪気なんか無かったし!」と、自分の加害性を否定してしまうこともあります。

「加害者側の自分」という気付き、自覚は決して気持ちの良いものではありませんね。自分は奪う側、傷付ける側だというのは、私たちにとってなかなか認め難いことです。そういう時私たちはしばしば言い訳をします。「悪気はなかった」「仕方無かった」「そうするより他無かったんだ」。

でも考えてみたら、多くの場合「悪いことをしてやろう」と思ってする人ってあまりいないんですね。みんな自分なりの道理とか、正義とかがあってやっているものです。

「いや、あなたにとってそれは何でもないこと、あるいは正しいことのように思えているかもしれないけれど、実は相手の心の深いところを踏みにじってしまうようなことだったんだよ」。ここのところを受け止めて初めて、反省が生まれ、謝罪が生まれ、対話が始まり、相互理解に向かう道が開けてくるのだと思います。「自分は間違っていない、自分は加害者ではない」というところにしがみつく限り、私たちは真に相手に寄り添う、隣人を理解するということは不可能だと思うのです。

それはただ「加害者である自分を責める」ということではなくて、今の私が、目の前の相手と向き合おうとする時に、「自分は他者を傷付け得る存在である、自分は他者を現在進行形で傷付けている存在である」という「おそれ」の感覚を持つということです。

冒頭の聖句は、有名な「善いサマリア人」のたとえ話です。

たとえばこの物語に出て来る追いはぎは、私たちの加害性の象徴であるかもしれません。追いはぎはこの旅人を個人的に憎んでいるわけではありませんね。むしろその旅人個人に対して、個人としてその人格を認めるような関心を払っていないからこそ、自分の利益や自分の平穏のために相手を傷付けても平気でいられるわけです。「どうしてこんなひどいことをするの?」と問うてみても、「自分の生活のためには仕方のないことだった」と答えるのではないでしょうか。

仮にこの追いはぎが、「自分は旅人を傷付けてしまった」ということを深く受け止め、自らの加害性を引き受けたとしたら。彼はその後、これまで通りの生活を送ることはできなくなるでしょう。生業としてきたことの罪深さに気付き、もうそのような方法で生きていくことはできないと思って、一旦は食うに困る日々を送るかもしれません。

自分の平穏のために、誰かが傷付くことについては「仕方のないこと」とするか。自分の平穏をなげうってでも、自分が誰かを傷付けてきたという事実に向き合うか。

自分の加害性に気付くというのは、「気付いていなかった以前の私」が享受していた平穏を手放すということですけれども、いわばその「まやかしの平穏を手放す」という痛みの上でようやく、真に隣人と向き合えるようになるのです。

追いはぎを生業として、「それの何が悪い」「そうしなければ自分は生きられないんだ」と開き直る者ようなではありたくない、と願います。自分が罪人であること。自分が加害者として、差別者として生きてしまっていること。自分が今誰かを傷付けつつ生きていること。これらを認めることに対して、臆病でありたくない、と願います。そして罪に対してただ悔いるのみではなく、勇気と希望をもって改める道へと進んで行きたいと思います。主イエスは、罪の贖いの十字架の傷跡を携えつつ、復活の希望へと歩み出して行かれたお方でありましたから。

その先に、誰もが尊ばれ、誰もが大切にされる、真の平和、神の国が実現することを信じます。

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