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何てことない、と思えたら。 ー「マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~」を見て その2ー

天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

旧約聖書 詩編 103編 11-12節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

先日、「マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~」を見て、そこからちょっと考えたことを記事にしてみました。

実に味わい深いドラマだったので、今回ももう一つ、別の点を取り上げてみたいと思います。

それは、イ・ソンギュン氏演じるパク・ドンフンが漏らした、「아무것도 아니야(あむごっと あにや/何でもない)」という一言。

辛いこと、上手くいかないこと、挫折や失敗の中で、自分に「아무것도 아니야」と言ってくれる人がいない、いなくなってしまった、というようなことをこぼすシーンがあって、これが私にとって非常に印象的でした。

というのは、私の大好きな宮本輝『流転の海』のシリーズでも、よく似た言葉が大事なキーフレーズとして出て来るからです。

「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」。主人公、松坂熊吾の人生哲学を凝縮したようなこの言葉は、全9巻に及ぶ大長編小説の要所要所に出て来ては読む者をはっとさせます。

私はこの小説を高校生の頃から読み始め、年を重ねながら繰り返し繰り返し読み直してきました。3年前についに完結したこの小説は、実は私の生まれ年に執筆が始まったそうなのですが、新刊の刊行と並走するようにして読み続けるうち、やはり私自身の捉え方が変わってきたことを感じていました。

「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」「아무것도 아니야」。いずれも、自分を取り巻く出来事を「小さく」見ようとする言葉です。若い頃の私にはこの言葉の持つ「慰め」が十分には理解できませんでした。それは、先の記事にも書いたように、若者というのが「何者かになりたい」存在で、大きくなること、大きな何かを成し遂げることで「自分」を創り上げようとしている最中だからでしょう。「たいしたことない」と言われると、自分自身が過小評価されたようで、面白くない気持ちが先に立ってしまったのだと思います。

一方で大人になると、社会的な責任がしがらみとしてのしかかり、大して大きくはなかったとしても「何者かであること」が求められ続けているような状態になりがちです。「ここからどこかへ」大きく駆け出していこうとする若者に対し、「ここで踏ん張り続けること」が使命であり、業(ごう)となるのが大人なのかもしれません。しかも、全てが上手くいくならともかく、踏ん張りながら頑張る中でも失敗や落胆を免れるということは、残念ながら無いのです。

「自分が駄目だったんだろうか」と不甲斐なさに打ちひしがれる時、「たいしたことはありゃあせん」「아무것도 아니야」という言葉がどんなに慰めとなるか。「そうだ、こんなことくらいで落ち込まなくていいんだ」「またやり直せばいいんだ」と、温かく肩を叩いてもらったような気持ちになれる気がします。

「マイ・ディア・ミスター」にせよ、『流転の海』にせよ、私が「中年の悲哀」を分かる年頃になったから、こんなに沁みるんだろうなぁ。年を取るって悪いことじゃないですね。滋味深さが増すわ。

冒頭に挙げた聖句は、詩編の一節。神さまの偉大さを謳った言葉ですが、まさにこの「たいしたことはありゃあせん」「아무것도 아니야」を感じさせる言葉だと思います。

「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」

東が西から遠いって……こんな最大級の表現ある? そう思うくらいはるばるした大きさを感じる言葉です。神さまはそれくらい大きな大きな眼差しで、私たちの咎をも含めて受け止めてくださっているというのです。

しょぼしょぼなクドウは先日も「あー、やっちまった」「情けないなー、ほんと自分ってしょうもないなー」と落ち込むことがあったのですが、胸の内で「아무것도 아니야」と呟いてみました。イ・ソンギュン氏のあの渋い低音ボイスで。そうしたら、「小さい自分」の中の、不甲斐ない部分もまたさらに「小さいこと」だと思えて、「他者との比較や、人からの評価を気にしてくよくよしても、あんまり意味無いよな」と、ひと息つけるような気持ちがじわっと湧いてきました。

これからも身悶えしたくなるような自分への落胆を何度も経験するだろうけれど、その度に「神さまの目から見れば、こんなこと、아무것도 아니야」と言い聞かせながら、また歩き出す(時に駆け出す)力を取り戻せたらいいな、と思います。

220213あむごっとあにやnote用イラスト


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