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自らも客体化されることを恐れずに

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

新約聖書 ルカによる福音書 10章36-37節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科教員として勤める、牧師です。

ツバメの家族らしき姿を見かけ、思わず写真を撮りました。そろそろ巣立ちの時期でしょうか。これからエサの取り方なんかを練習していくのかな。言葉は無くとも、生き方を教わり、学び、やがて独り立ちしていく……というイメージをしてみると、感心する思いです。

私も及ばずながら「教育」という業を担う者ですが、「教育って何だろう、教育って難しいな」と常々考えています。難しくて、怖い。自分がやっていることは「教育」なのか、それとも別の何かなのか……。そんなことを思うからです。

教える内容の面でも、えこひいきをしないという面でも、教育は「偏りが無く、ニュートラルであること」が望ましいのでしょう。けれども、教員といえども人間です。何かを語ればどうしたって、自分という人間の「色」が付いてしまいます。カリキュラムはある程度決められているにせよ、その中で何にどれくらいの時間をかけて教えるか、といったことを計画する段階で早速、担当教員のフィルターがかかります。ひょっとすると、学校で学ぶこと、授業に出席させることの中にすでに、「学校で学ぶことは意味あること」という価値観への強制力が働いていると言えるかもしれません。考えても考えてもキリが無いですが、だからこそ考え続ける、自戒し続けることが大事なんだろうなぁ、と感じています。

学校だけでなく、企業にお勤めの方でも、後輩指導などの形で教育に携わることはありますね。中には「影響力の強い先輩」と言われるような人もいるでしょう。指導を受けていた新人さんが、気付いたらその先輩と考え方もしゃべり方も、笑い方まで似てきた、なんてこともあったりして。後ろで聞こえた笑い声にてっきりその「先輩」だと思って振り向くと、後輩の方だったのでびっくり、という経験が私にもあります。こういうのは「後輩指導に長けている」と言えるのでしょうか。すごい、私にはそこまでできない、と感嘆する一方、ちょっと怖いかも、とも感じます。いわゆる「カルト」などにも似たような図式が……などと考えると、どこまでが「良い教育」で、どこからが「怖い洗脳」なのか、意外と表裏一体なのかな、なんて思えてきます。

少しひねくれた見方をするなら、「教育力がある」というのは「強制力が強い」とも言い換えられるのではないでしょうか。同様に、「影響力が強い」のは、もしかしたら「洗脳が上手」ということかもしれません。

「教育力のある人」を糾弾するつもりはありません。私には良くも悪くもあんまりそういう力は無いので、ただのひがみみたいになりますしね……。とほほ。けれどもそんな私にさえ、「教員」という立場にある以上、そういう「力」を振るえる可能性がある。それを自戒する姿勢は必要でしょう。

ツバメが親を見て飛び方を覚えていく過程に、「あれは強制だ、洗脳だ」と思う人はいません。だとすると、強制ではなく教育を、洗脳ではなく感化を与える秘訣は、ツバメに学ぶことができるでしょうか。もしかしたらそれは、「教え込むのではなく、自分の姿を見せること」「相手自身が自分の力で生きられるように促すこと」というところかもしれません。

冒頭の聖句は、隣人を愛することについてイエスが有名なたとえ話を語った時の、締め括りの言葉です。「隣人を愛するとはどういうことか。私の隣人とは誰か」。そのように尋ねてきた律法の専門家に対し、イエスはまずたとえ話を語ります。内容についてはここでは一旦措きますが、イエスは最後に質問者本人に問い返すのです。「この話を聞いて、あなたは『隣人』についてどう思うか?」と。たとえ話を通じていくつかの選択肢を示された上で、質問者自身が「これが私にとっての『隣人』の姿だ」と思うものを選び取る。自分で答えを見付ける。これが「教育」のひとつのあり方ではないでしょうか。

さらにイエスは、「分かったなら、私について来なさい」ではなく、「分かったなら、あなたも自分がそう思ったようにしなさい」と促します。「ついて来させる、従える」のではなく、「相手を信じて送り出す」。ここに、私の目指すべき「教師」の姿があるように思いました。

昨日、「ふれしゃかフェス」というオンラインイベントに参加しました。

たいそう面白かったし勉強になったのですが、本筋からはやや離れるかもしれないところで、「主体と客体」という言葉と出会いました。

私たちはどこかで「主体」であり続けることを望んでいるのかもしれない。「客体」とされることを恐れているのかもしれない。「教員」は実はその最たるものかもしれない。そんな問いを自分自身に向けるきっかけをいただきました。

生徒に「批判的思考」を身に着けて欲しいと願っています。しかし生徒が本当に批判的思考を身に着けた時、「教える主体」として彼らの前に立っていた私は、「教壇」から下ろされ、私自身もまた批判的に問われる「対象」とさせられるはずです。その覚悟をきちんと持っているか。

「私の飛ぶ姿を、見てごらん」。そう示した後で、自分自身を動かぬ「教える主体」とするのではなく、「ああ、あなたの方が私より上手になったね。私にもその飛び方、教えて」と素直に言えるくらい、自身を客体化していきたいものです。雛だと思っていた相手が立派な若者として巣立っていくことに対し、敬意を持って「あなたの思う所へ、あなたの目指す空へ、行ってらっしゃい」と言える者でありたい。

明日も謙虚に、若い彼らの前に立たせていただこう。そう思います。

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