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「それを知る」ことで「それに気付く」ようになる。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
旧約聖書 創世記28章15-16節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

韓国語を勉強し始めて一年と少しが経ちました。
(↓↓↓ 勉強をし始めたばかりの頃の記事がこちら。 ↓↓↓)

先日、韓国語を話せる友人から「눈치」 という言葉を教えてもらいました。「『気配りができるねー』とかいう時に使うよ~」と言われ、「へー、綴りはどう書くの?」などと話していたのですが。
その日から急に、この言葉がしばしば目に留まるように、聞こえてくるようになりました。

たとえば我らが(←我らが)BTSの「Life Goes On」という曲。

この初めの方で、「봄은 기다림을 몰라서, 눈치 없이 와버렸어(春は待つことを知らず、気遣いも無く来てしまった)」という歌詞がありました。今までも何度も聞いてきた歌詞だけど、「あ、ここで눈치か~」と改めて気付く。

さらにはEXOというK-POPグループ(これは我が友人の推しグループ)の曲に「훅!(No Matter)」というのがあって、何気なくこれを聴いていたら何と歌い出しが、「눈치 같은 건 전혀 볼 필요 없어(周りの様子みたいなものは窺ったりする必要は無いよ)」でした。ここでも눈치!

さらに! 我らが(我らが)(毎回言う)BTSが現在ソウルにてオンラインコンサートを開催中ですが、このオープニングコメントでJ-HOPE氏が「気にせず楽しんでください!」みたいなことを言っておられ、そこでも「눈치」が聞こえて「おおっ、また出た!」と思ったのでした。

意識するとあちこちで聞こえてくる、目に留まる。以前からきっと私の見るもの聞くものの中に「それ」はあったのでしょうけれど、自分がそれを「知った」ことによってアンテナが生まれて、しっかりキャッチできるようになるのですね。

「見ている、聞いている」ことと、「見えている、聞こえている」ことは違う、ということがよく分かります。

神さまの存在、神さまの言葉に対しても、同じかもしれません。

冒頭に引用した聖句は、旧約聖書創世記のヤコブの物語から。様々な思惑が交錯する中で兄弟エサウから憎しみを向けられることになったヤコブは、家を捨て、故郷を離れ、孤独な旅路にあります。そんな中、ある場所で夜を過ごすヤコブに、眠りの中で神が呼び掛けられた……という場面です。

後悔や苦悩、不安や虚無感、孤独感……。そういうものに苛まれながら眠るヤコブであったろうと想像しますが、「もう自分はダメだ、ひとりぼっちだ」とうなだれる彼はあろうことか、神ご自身がおられる「その場」にいたというのです。

神が共におられることを知ったヤコブは、また旅を続けます。神がおられるからと言って、彼を苛んでいた諸々の苦悩の原因である「家族との離別」といった状況は変化していません。でも、「こんな私の所にも神はいてくださる」と「気付いた」ことで、同じ状況下であっても「世界の見え方」が変わったんだろうな、と想像します。だから彼はまた歩き始めることができた。

「何かが足りない」と嘆く時、それはもしかしたら自分のアンテナの感度の問題なのかもしれません。「눈치」という言葉を「知る」ことによって急にあちらでもこちらでもその言葉が聞こえてくるようになった私同様、「神の愛が私と共にある」ということを「知る」ことによって、これまで見過ごしていた数々の神の恵みに気付けるようになる、ということは大いにあるのです。

神の愛のみならず、家族や友人たちの思いやり、健康な生活が調えられていることの恵み、当たり前のように日常生活が営めることの喜び……などというものも、日頃キャッチし損ねていることが多いかもしれませんね。

単語帳をめくって忘れかけていた単語を思い出すように、ちょっと立ち止まって、自分に与えられている恵みを「知り直す」機会を持てればと思います。


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