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4年前、渋谷の東急の地下で橋本愛に出会った話

くどうはなえ

記憶は不確かなものだ。そして、記憶をいかに鮮明に辿ったとしても、そのまま過去に戻れるわけじゃない。どうしたら、わたしたちは今を生きられるのだろうか。

がらがらの電車の車内。

無意識に過去の付き合っていた人との楽しかった記憶を再生するプレーヤーを、気になる誰かと向き合っている瞬間にも探しているような気がする。

向いの席で、会社の同僚っぽい二人組のかたっぽの女の人が、「今更新しく誰かとボディーブロー打ち合うのもめんどくさくて」と腕を組む。後輩の犬顏の男の人が、「わかりますそれ」と、しきりにうなずいている。


「あ~あ、レポートめんどくさ!」

21歳。大学4年の夏。講義終わりの教室で、わたしは大きくあくびをした。
中学校の水泳終わりの教室の空気をさらに濃密にさせたようなけだるさの中、レポート提出前にも関わらず、今日は彼の家に泊まっていってしまおうか、などと思っていた。浮足立っていた。

付き合っていた時、無性に悲しかったときは、立っている地面を二本の足でひたすら踏んずけて遠くに、遠くに景色を流したりしていた。そうして、自分は今映画のワンシーンの中にいるみたいだ、などと思ったりしていた。最初のうちは焦って追いかけてくれたけれど、そのうち、それが映画のワンシーンなどではないと分かると追いかけてこなくなった。

わたしだけ、いつまでも自分だけのスクリーンの中で足踏みをしていた。今も、している、ような気がする。

これは二人がちゃんと二人の映画の中にいた時の話。

最初に気づいたのは、彼だった。
息をのんで、わたしも視線の先へと目をうつした。

東急デパートの地下のお惣菜売り場で、油を売っていた時のこと。二人の前に、ある一点の恒星が、飛び込んできたのだ。


……橋本愛だ。と思った。


橋本愛が、楽しそうにお惣菜のショーケースからお惣菜のショーケースへと歩をすすめていた。


「橋本愛」は、言わずもがな、女優さんで、モデルさんで、歳で言うと、わたしの3つ下(学年は2個下)。つまり、その当時、19歳だった。

わたしは、まじまじと、「橋本愛」を見た。すると、「橋本愛」は、ふっとわたしの方を見た。そうして、誰かに見られていることなど、特に何も面白いことではない、と言いたげにそのまままたショーケース(お惣菜の並ぶ)に目を戻した。ロシアンブルーみたいな高貴な気ままさで。

わたしたちは、日々、渋谷のスクランブル交差点の横断歩道の
くすんだ白だけをめがけて渡ったり、TSUTAYAで及川光博のジャケ写で死ぬほど笑ったりしていた。

そんなしょうもない大学生活という日常に赤や青や緑や黄色などの糸を幾重にも織り込んだようなカラフルなオーバーサイズのニットをすっぽりかぶったスーパーな女の子は飛び込んできたのだ。

間延びした日常の中で、背伸びせず、まあ、橋本愛ですが、なにか。というような一歩間違えると憮然、ともとられてしまいがちな姿勢で一人、真剣にお惣菜を選んでいた。


隣にいた人も思わず、
「ほぅ……」と声を漏らしていた。横顔が光を受けて弾んでいるようにみえた。

夕方の渋谷の東急の地下、大勢の見知らぬ人がひしめく中、急速冷凍のようにそこだけぽっかりと静寂が広がっていた。付き合っている人がとなりで別の女の子に感嘆の声をもらしている、という事実。正直良い心地ではない。けれど、その映像がもたらす興奮は、一瞬現実を越え、嫉妬や憧れやそういうものを飛び越えた圧倒的ものとして、いまだにわたしの頭の中で、現実の記憶から少しはみ出したようなイメージで残っている。
「橋本愛」という10代の女の子が、ただ存在している、という事実が、これほどまでに心をまるごと持っていくのか。という衝撃。

同じ人間であり、同じ女の子であり、同じように時代を生きてきて、このように純粋に美しさをまとえる人間もいるのだなあ。という実感。そしてそのことが4年たった今も映画の1シーンのように繊細に思い出されるということ。女優とはこういうことなのか、と改めて心底、うわーと驚く。

自分だけのスクリーンの中でずっと地団駄を踏んでいたわたしと、19歳という若さにして数々の映像作品に出演し、数えきれないほどの数の瞳にその姿を刻み込んできた人とのどうしようもないほどの覚悟の差を感じた。

要するに、打ちのめされたのだ。

わたしには、覚悟が足りないのだ、ということを漠然と思う。
この人で良いのだ、という覚悟。今の仕事を続ける覚悟。もっと広い世界を見たいと飛び立つ覚悟。
人は、いつ覚悟を持つのだろう。いつ、真っ直ぐ誰かの目を見れるのだろう。わたしは。

日常は、映画じゃない。でも、映画は人の心を動かし、日常を少しずつ変える力を持っている。

星は、一生掴めない。そして、星にはなれない。けれど、わたしは、あのときの橋本愛のように、自分の足でしっかり立って、輝いてみたい。と、思っている。


誰もいない車内。揺れるつり革。窓から小さくかすんだ月がみえる。

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