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いつかみた花を愛すように

今日もいつのまにか時計の針が進んで
夜になってしまったな、
と思う。


ずっと辞めたいと思っていた仕事も
いざ急に行かなくなると、すこし恋しい。


書くことで自分の中で
の違和感をなくしたい、と、
自分のために書いていたものが、誰かに
触れた時にその人の一部に
なるなんてことを期待してる。

今日の岡江さんの報道、とてもショックだった。もし、家に一人だったらしばらく泣いて立ち直れなかったはずだ。でもわたしは、しばらくたったら、父が咳払いをしたことに対して
「え、コロナ?コロナ?」とか無神経に言ってしまうような人である。


昨日、わたしは美容院に行った。このご時世に、と思われるかもしれない。でも、
ただでさえ家にいてしょっちゅう歯磨きをしてしまったりして、
鏡と向き合っちゃうのに、そんな中で自分の髪が恐ろしくぼさぼさだと結構
テンション下がってしまう。これは、もう、しょうがない。女子として生まれて
きてしまったものの宿命なのだ。
自転車で吉祥寺まで行ったのだが、道のり、
テイクアウト出来る店がちらほらと開いていて、少しホッとしてしまう。
今度、タピオカだけ買いに自転車で来よう、と思う。
聞いていたよりも、人の流れもそこまで多くなく、駅から少し
離れた場所にある美容院の通りなんて、本当に数えるほども人が歩いてなかった。
そう、わたし、髪を切ってもらいました。お母さん以外の人と久しぶりに生で話したらとてもうれしくて、がちがちにこわばった表情筋もコーヒーにいれた角砂糖みたいにすこしずつほどけてゆきました。

可愛い美容師のお姉さんは、私と同い年で、芸人でいうと、ラバーガールと、シソンヌが好きらしい。

しかし、可愛い人の「好きな芸人」を何故だかすぐにはYouTubeの検索画面に入れることができないのはどうしてなんだろう。

僻みだろうか。

そうこうしている内にすべて終わって
美容院から出たわたしは、近年おしゃれタウンとして名を馳せる「吉祥寺」の街を自転車で通過する。

高校生の時の通学路として、吉祥寺の街にはたまに降り立っていたのだけれど、なんだか、今、踏み入れようとしている「吉祥寺」と、あの時庭のように思っていた「吉祥寺」は、まるで様相が違っていて、新鮮に感じてしまったりする。あの時、目に入っていたカラオケ屋や、コンビニや、予備校や、ガストや、デパートよりも、ずっと低い目線で街を見ている。
もはや、それは同じ街と言えないくらいで、大人が口をそろえて「良い」とうなずくdancyuや、Hanakoで特集される街を
同じニュアンスで「良い」と言うことに対して、恥ずかしいと思わず、何の抵抗もなく、素直に「良い」と、言いたくなっている自分がいる。吉祥寺を、吉祥寺という街を、吉祥寺という街にすむ人たちを愛したい、と、恥ずかしげもなくおもってしまったのだった。


そんなことを考えながら、井の頭公園を抜ける。坂の途中で赤くて小さい可憐な花に出会った。

いつか見た花を愛すように
日々を、誰かを、愛したいと思う。
そしてそれは
恥ずかしいことではないのだと
思う。

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