本格ミステリのフェアネスと社会常識

※本論考は同人サークル『D坂大学』発行の同人誌『紅藍レビュー・九段新報BEST SELECTION』に収録されたものです。

 最近、ミステリを読んでいて首をかしげることが多い。どうにも、結末やトリックに納得できない経験をすることが増えた気がする。

 元来、ミステリは極めて厳密なフェアネスが求められる小説である。「読者への挑戦」という文化があることからもわかるように、ミステリは読者が文字の羅列から情報を読み取り、それを基に結末を予想するという楽しみ方を想定している側面があるからだ。「挑戦」という表現から察せられるように、読者が作品の結末を推測する過程は一種の競技に近く、故に、ミステリ小説の「ルール」に沿った結末が期待される。そして、ルールに沿いながら、つまりフェアな展開でありながら、読者の発想の埒外にある結末を提示できた作品が傑作と呼ばれ、そうならなかったものは駄作と呼ばれて石を投げられることとなる。

 私が、最近首をかしげることが多いというのは、つまりこのフェアネスを破壊するような作品に、立て続けにぶつかったためである。それらの作品の結末を目の当たりにした私は、結末に納得できないだけではなく、目の前で堂々と不誠実な規則破りを経験したような不愉快さも感じた。

 それはなぜだろうか。
 というか、そもそも、ミステリ小説におけるフェアネスとはなんだろうか。

 ミステリ小説がフェアネスを追求する作品である以上、そこにはすでに無数の議論の蓄積があるだろう。著名な『ノックスの十戒』しかり、様々なルールが提唱され、時代の変化とともに変容しながらも共有されてきた。謎を解くための情報は事前に提示されているべきであるとか、犯人は序盤で登場しているべきであるといった規範はその好例である。

 そのようなルールは通常、読者の不公平感というか、「それをやられたらどうしようもないだろう」という感覚を減じるために設定されるものであると考えられる。先ほどの例でいえば、読者に提示されていない情報も結末間近になって登場する人物も、読者の推理に含めようのない要素であり、それらが推理に不可欠であるとするならば、読者が結末を推測したプロセスは全くの無駄骨に終わるのである。

 ここで、私はミステリ小説のフェアネスを構成するであろう、もうひとつの重要な要素を指摘したい。それは、ミステリ小説における「常識の順守」である。

おおよそあり得ない展開

 抽象的な議論をする前に、話をわかりやすくするために実例を挙げたい。以下に挙げるのは私が本論を書くきっかけとなった小説のうちのひとつである。

 月原渉の作品のひとつに『オスプレイ殺人事件』というものがある。作中で起きる事件の骨子はこうだ。飛行中のオスプレイの機内で、乗組員全員が着席の上シートベルトを着用していたにもかかわらず、乗員の一人が刺殺される。当然、機内では誰も動くことができるとは考えられず、典型的な不可能犯罪のように思われた。

 しかし、トリックは単純だった。

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