教育分析について②

最初の頃の、カウンセリングとして先生からサポートを受けていた時は、かなり先生も支持的にこちらに寄り添い、感情を受け止める関わりをしていたように思います。

当時の主な内容としては、その時起きていた職場との関係性が主なテーマでした。職場の構造と、自分自身の性質との相性が非常に悪く、当時は噛み合っていませんでした。

おそらく今当時の職場に戻ったとしても、前よりはうまく振る舞えるかとは思いますが、おそらく似たような葛藤は抱えるでしょう。

そうした意味で、当時の自分は自分自身の内面や家族との関係を掘り下げるような作業はできる状態ではなく、あくまでその時起きている問題を解消し、傷を癒すことが精一杯だったと思います。

もっと言うならば、そうした判断を担当の先生が、的確にしてくださったことが、自分にとっては大きな救いでもありました。

これは全く別の話ですが、以前また別の先生にスーパービジョンを依頼したところ、こちらの勤務状況やカウンセリングに対する姿勢などを一切考慮することなく、先生自身の考え方や捉え方を、一方的に押し付けてくるようなことがありました。

その時自分は、こちらが何かできていないのかもしれない、伝え方が悪いのかもしれないと考え、踏ん張って3回ほどスーパービジョンを受けました。しかし、結局終始その先生から一方的に先生の考えを押し付けられるに止められ、ただ非難されると言うことを繰り返すのみに終りました。

おそらく背景には、その先生の思いや臨床に対する姿勢があったのだとは思います。しかし、指導と言うには失礼ながらあまりに拙く、独善的な内容だったように思います。

私自身が教育分析を受け続けている事の背景には、先生との相性や、出会い方の性質、また先生がカウンセリングの場をどのように整え、しつらえてくださったのか、そうしたことが土台としてあるのは確実でしょう。

私自身も、カウンセリングを行う場合、その方が現場を目下危機に瀕している場合と、より内面を掘り下げて自己理解を深めていく場合と、自分自身の成長を促す場として面接を行う場合とで、カウンセリングの行い方を若干変えているところはあります。

これらの要素は、カウンセリングの進展度合いや、状況によっても変わってきます。すっぱりと別れると言うよりは、ブレンドされるような感じで、クライエントさんの自分自身に向き合える力や資源によっても、取り扱う感触は変わっていきます。

しかし、周りを見ていると、意外とそうしたカウンセリングの局面、いやその人の人生の局面と言うものを、意識せずに関わる支援者が少なくないようにも見えます。職場においてもそうですが、指導を受ける際にも指導者があまり意識していないと言うこともあったり。

徒然としてしまいましたが、教育分析の、私自身の発端としては、カウンセリング体験から始まっています。そして、そこから得られた肌で感じとるような、体の奥底で感じ取るような体験と言うものは、自分自身の支援における土壌にもなっているようです。

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