誰でもそうだと思うんだけどそうじゃないかもしれない

毎日莫大な情報に触れて、それについてその時何か考えて、その後も折に触れては色々思い出しては考えて、思ってみればいつでも言葉の洪水が頭の中を渦巻いている。以前は自分のために小説を書くことでなんとかバランスを取っていたのかもしれない。

人生色々あるうちにだんだん小説を書く量も減り、先だってトドメのできごとがあって(そのことにも追々触れよう)、正直に言えば生きていく自信すら全く失った状態になった。それでも相変わらず頭の中には色んな出来事がよぎり、それについてくだくだと考えてしまう。

書いたところで何の役にたつわけではないだろうし、それなら日記に書いておけよとも思うのだが、(読んでもらえるかどうかはともかくとして)人に読んでもらえる体裁を整えて書くという過程が必要なのだと思う。

言葉にすること、言葉にされたものを読むことが生きていく助けになることは、確かにあるのだと思う。

この間ラジオを聴いていたら、(ヒップホップの)ラップを通して子供たちの表現活動を支援しようという取り組みが紹介されていた。

下手でもいい、表現することで救われるものがある。初めて気付く感情がある。表現されたものを誰かが受け取ることで相互に救われることもある。表現しなければ気付かなかったこともある。そんなような話だった。

もちろん素敵な取り組みだと思った。でも本当は、国語で教えてほしいのはこういうことなんじゃないかと思ってしまう。ラップを教えろという話ではもちろんなくて、自分の言葉で表現するということだ。

だから、ここにプラスして、語彙を増やす試みがあればいいのかもしれないと思う。言葉を知らなければ表現できない。英語にたくさんある褒め言葉だって、日本語にすればほとんど『素晴らしい』になってしまう。ない言葉は言葉にできない。言葉にできないのはつらいことだ。人にわかってもらえないだけではない、自分にもわからない。語彙がなければ考えることもできない。怒りも喜びも衝動でしかない。

そう、だからたぶん、私は考えたいし、表現したいのだ。人の書いたものを読んだり、色んな形で表現されたものを受け取りたいのだ。もちろん言葉以外で表現できる人もいるだろうし、それが一番納得できる人もいるのだろう。それすら私は言葉に表現して考えてしまう。少なくとも私の基礎は言葉なのだろう。

自己中心的なこの文章を人に読んでもらう意味はあるのだろうか。読みたい人なんていないのではないだろうか。またそんな風にも思うのだが、今書いているこれはともかく、常々考えてしまう色んなことや、これまでにあったことを噛み砕こうとする試みは、もしかしたら誰かが読んで何かを受け取ってくれるかもしれない。

発信したいという気持ちは一体何なのだろう。自己愛的なのかもしれないし、誰かに認めてほしいのかもしれない。それの何がいけないのだろう。なぜか、いつもいけないことのように言われてきたような気がする。

まあ、何でもいいやという気がしてきた。どちらにしても、どこかに形にしていかなければ、いつか破裂してしまうような気がするのだ。そうしたら今度こそ、私は駄目になるような気がする。そんな自己中心的な目的で、この場所を始めようと思う。










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