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僕らの心は格差をどう正当化しているんだろうか?

ジャック・アタリ著『21世紀の歴史』の中で、「中心都市(世界の市場の中心となる都市)」がどのように移り変わってきたかを考察した一節がある。

「中心都市」の形式が移り変わるたびに、まずは農産物が、次に工芸品が産業化され、奴隷制度が衰退し、賃金労働が発展してきた。また、エネルギー生産や情報伝達手段が自動化され、技術者、商人、銀行家、海運業者、軍人、芸術家、知識人も 「中心都市」へと移動する。そこで個人・市場・民主主義の領域は拡大するが、独立した農民・職人・自営業者は不安定な賃金労働者と化す。つまり、富が限られた人々の手中に集約され、消費者と市民は大きな自由を手にれる一方で、労働者はきわめて疎外される。

史上初の中心都市が12世紀末にブルージュで誕生。以来、現在の中心都市ロサンジェルスに至るまでこの流れは変わっていないとアタリはいう。

それなら、「歴史の必然」として大きな自由の代償の代わりに疎外される労働者が生まれるのは仕方ない。そういう見方もできるかもしれない。

しかし、社会が必然的に疎外される労働者を生み出すとして、僕ら一人一人はそれをどうやって納得しているのだろうか。

生活を犠牲に低賃金で働かされる人たちの存在をどうやって正当化しているのだろう?

このところを今日は考えてみたい。
(あえて敬語をやめてます。一回こんな社会派のコラムみたいなのを書いてみたかったのです)

非正規雇用の実態

労働者といってもいろいろだが、現代において最も疎外されている労働者集団は非正規雇用者ではないかと僕は考える。

国税庁の2018年民間給与実態統計調査では、非正規社員と正社員の平均給与差は正規504万円、非正規179万円で325万円だ。6年連続で差が広がっている。

もちろん、望んで非正規労働者となる人も多いが仕方なく非正規に収まっている人もかなりの程度いるだろう。望んでなっているならこんなに非リアばっかりになるものか!!つい心の声が…

雇用形態別に20~30歳代の婚姻・恋愛の状況を見ると、男性では正規雇用者は既婚が27.5%、恋人ありが27.2%で、両者を合計すると54.7%となり、過半数にパートナーがいることになる(図表-10)。一方、非正規雇用者は既婚が4.7%、恋人ありが15.3%で、両者を合計しても20.0%である。裏を返すと、20~30代の非正規雇用男性の8割にはパートナーがいないということになる。さらに、その8割の男性のうち約半数には交際経験もない。
参考:https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=53796?pno=4&site=nli

気を取り直して。
ざっくりと実態を掴むためにデータを紹介してみたが、今回取り上げたいのはどれくらい格差があるかではない。問いたいのは、僕らがそれをどう正当化しているのかということである。

双方の同意があれば良いか?

奴隷であることを契約として(強制ではなく)受け入れる人がいるならば、その人を奴隷にしてもよいか?

これに関しては、受け入れられない人の方が多いのではないかと思う。そういう前提のもと話を進める。

では、僕らの社会で、低賃金の労働者(非正規雇用者のような)に支払う賃金を他の職種よりずっと低くしてもよいとする理由はなんだろう?

賃金が減少すると、個人の人生設計における選択肢は減ってしまう。僕の母のように子供2人を抱える年収100万円程度のシングルマザーならその程度も甚だしい。

食べ物や住居など最低限の生活も賄えない場合も少なくない労働者のいる社会と奴隷を持つ社会は何が違うのか?

別に、低賃金の労働者の仕事が社会的に無意味であるわけではないだろう。むしろかなり重要だったりする。それなら、高い報酬、あるいはせめてふさわしい報酬を受けるべきではないだろうか? 

それとも今のままでよいと思うだろうか? 

それが社会の仕組みだから、あるいは学歴、職業訓練、豊富な経歴、「稼げる考え方」などを持つあなたのほうが高給にふさわしいからという理由で?

仕事を頑張れば、お金は後からついてくる?

あなたは、「この世界では、人はたいてい自分にふさわしい報酬と報いを受けている」と考えているだろうか? 

その通りと答えたなら、「公平な成果と割り当て」を心から信じているのかもしれない。善人は幸運にふさわしい、勤勉な人は豊かになって当然だ(頑張ればお金は後からついてくる)、働かない人は飢えても仕方がない。

そんな思いが強いほど、あなたは世界は公正な場所だと信じていることになる。それだけでなく、たとえば勤勉なのに飢えている人がいるなんてとても理解できないということでもある。僕の母が稼げないのは、勉強が足りないから、性格や思考に問題があるからということになるかもしれない。

「公正世界仮説」と呼ばれる認知バイアスがある。メルビン・J・ラーナーが1960年代初頭に行った研究がその嚆矢である。彼が知りたかったのは、被害者にその苦しみの責任を負わせる人があまりに多い理由だった。

一連の実験から明らかなったのは、「人は自分に値するものを手にする、逆にいえば、人は自分が手にしたものに値するという信念を持ち続けるために認識を調整する」ことだ。

人々が公正世界を信じるのは、自分の運命は自分で握っていると感じていたいからであり、それを信じられなくなれば恐ろしくて仕方ないからなのである。

頑張っても報われないことはある、誰より真面目に生きても他の人と同じく急に理不尽な目にあうこともあると認めながらどうやって生きていったらいいのだろう?

そんな不安のある人が公正世界仮説に囚われるのかもしれない。

被害者はなぜ責められるのか?

人は自分には正せそうにない不平等に満ちた世界を理解できるものにしようと、公正世界仮説を利用する。自分自身の人生は自分がコントロールしていると感じるのは幸福なことだが、誰もが公正世界を信じていると思い込んでしまえば、社会に致命的な影響を与えるかもしれない。

昔から世間の公正世界的な信念は、貧しい人たちや犯罪被害者に対する多くの批判的な態度と結びついてきた。人は自分が手にしたものに値する、あるいは人は自分に値するものを手にすると信じてしまえば、それは当然ながら、酔っぱらってレイプされた少女や、地下鉄で施しを請うホームレスへの見方に影響を及ぼす。

僕は幼い頃、父方の祖父母に真剣な顔で「お前はちゃんと勉強してあんな大人(土方)にはなるんじゃないよ」と言われたことがある。トラウマ的な記憶として残っているのだが、今なら祖父母が公正世界という信仰を持っていたためだとわかる。

貧しい人に対ししかめ面をし、「働けよ」という言葉を投げつける人も見かけたことがある。シングルマザーの母を蔑む目で見る人たちもいた。そんな態度を取るのは、その人の努力が足りないから、間違った選択をしたから、困窮しても仕方がないと思い込んでいるからだ。

しかし、実はそれは自分自身を守る手段だ。

私たちは、自分は困窮しない、なぜならそんな報いにふさわしくないからだと考えたい。そして被害者たちに対しても同じように考える。人が被害者を責めるのは、被害者には多少なりとも落ち度があったと考えるほうが安心できるからだ。

謙虚とは確率を知ること?

秩序が保たれ、すべてうまくいっていると人間は感じていたい。善人にも悪いことが起こるとは考えたくない。

しかし、そんなことはつねに起きている。(ちゃんと目を向けるんだ!)そのことを認めさえすれば、潜在的な不平等に立ち向かおう、それに対し何かしようという気になれる。少なくとも貧乏な人や犯罪の被害者に仕打ちをしようとは思わないだろう。

いや、むしろ公正世界を認めないならなんのために生きていいかわからず自暴自棄になるのではないかと思うなら、あなたはまだ公正世界仮説に囚われている。大人に逆らいながらタバコと酒を飲む中学生と何も違わない。

努力によって僕らは、危険にあうリスクや貧しく生きていく確率を減らすことはできる。しかし、あくまで確率が減らせるだけだ。

さほど努力しなくても成功する人がいるし、どんなに努力をしても貧しいままの人もいる。やたらと事件に巻き込まれる人もいるし、甘いものを食べなくても糖尿病になる人やタバコを吸わなくても肺がんになる人がいる。

そもそも、努力以外に僕らの運命を左右する要因は多く、その影響は無視できないほど大きい。生まれた場所、生まれた家、生まれた時代、生まれ持った遺伝子(見た目や知力)はかなり大きく人生の方向性に影響を及ぼすが、努力ではほとんどどうにもならない。

だからこそ、今自分がたまたま恵まれていることに感謝しつつ、それを使って他者に貢献すべきではないか?

誰が格差を許すのか?

話は上手くまとまったかに見えるが、問題はまだ根深い。

不平等な格差を仕方のないもの、あるいは正当なものと認める傾向が強いのは外でもない弱者の側なのである。

意外なことに、最低所得者層は一貫して最高所得者層よりも現状を支持する傾向がある。貧乏な人の方が経済の格差は正当で当然なものと認識しているのだ。つまり、公正世界を信じている。

これはまさに僕の母や親戚を見ていても感じることで、彼ら彼女らは自分が今稼げなかったり苦しい状況にあることを「仕方ない」とか「昔頑張らなかったからだ」と捉える節があるのだ。

また、日本人は比較的低賃金に寛容なようである。下の記事によると「客観的なデータは、日本の労働者の賃金水準が低いことを、はっきりと示している。にもかかわらず、当事者である個人は、賃上げを企業に要望していない。今の日本には、賃金をめぐる客観的な状況と、当事者である個人の意識や行動に大きな乖離が存在している」という。そのため、企業は積極的に賃金を上げようとしないというのだ。

さて、最低所得者層が一貫して最高所得者層よりも現状を支持する傾向があるからといって彼らが不当な扱いを受けていないわけではないことも確かだ。むしろ、不当な扱いや不公正な社会に対する精神的な防衛策としてそう考えるようになったのかもしれない。

では、ここでまた最初の方の問いに戻る。

奴隷であること(不公正な待遇、不当な扱い)を契約として(強制ではなく)受け入れる人がいるならば、その人を奴隷にしてもよいのだろうか?

いやいや、努力が報われる社会にするべきだと思うのであれば、

怠惰な人、無能な人、意地汚い人はそれに応じて生活にも困るような不当な扱いを受けて良いのだろうか?それは「仕方のない」ことなのか?

僕には、まだわからない。

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