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中世の人にとって金=核燃料だったと考えるとすんなり理解できる当時の価値観

岡田斗司夫さんの『評価経済社会』の中で、中世の人にとっての勤労や金儲けは悪だったということが紹介されていました。

説明がわかりやすいので、一応理解はできていたのですが、イマイチ実感が伴わないなあと感じていて ーそりゃあ、パラダイムシフトが何百年も前に起きたからですがー これを補間するアイデアに飢えていました。

そんな時に、長沼伸一郎さんの『現代経済学の直感的方法』に出会って、「あぁ!」という快感を味わえたんです。

というわけで、お金って核燃料みたいなもんだという話をしていきましょう。


中世をざっくり

厳密なことは置いといてざっくり中世を表すと、「モノ不足・時間余り」の世界でした。

圧倒的に食料などのモノが足りない世界。代わりに思索に当てる時間はたっぷり。

さて、人間は豊富にあるものをパーっと使うのがかっこよく、不足するものを大事にすることを美徳と感じる特性があるようで、中世の人の場合には「貪欲は悪」という価値観としてそれが現れました。

ですから、勤労も悪です。

理屈を聞かれれば、「一人がたくさん働けば結果的に他の人の土地や資源を奪うことになるから」と答えたかもしれませんが、いつの時代もそんな賢いことは全員にできるはずがありません。

というわけで、「貪欲は悪」「働き者は貪欲だ」「お金は汚い」「仕事は最低限にして家で祈っているのが美徳」という、まあこんな感じの価値観が自然に形作られていきました。

そんなわけで、僕らの3分の1くらいしか中世の一般市民は働いておりませんでした。

みんなが自分の利益を追求すれば結果的に社会は安定する」という価値観を生きる僕らとは根本的に異なっています。

中世の人から見れば明らかに僕らの価値観は堕落以外のなにものでもないでしょう。

時代の状況や技術力が社会の価値観を変えてしまうんですね。

ここまでは『評価経済社会』にあった話です。


お金=核燃料 ヨーロッパ編

産業革命以降を生きる僕らはこの中世の価値観がイマイチよくわかりません。理解できてもしっくりこない感じ。

どうすれば中世の人に近い感覚を頭の中に再現できるものだろうか?

ミニチュアとかコスプレとかありますけど、再現って楽しいじゃないですか?(笑)

僕はミニチュアもコスプレもやったことないんですけど、感覚や感情を想像力で再現するのが好きなんです。

まあそれは置いといて。

そいったわけでモヤモヤしていたところに偶然あの本に出会ったわけですよ。『現代経済学の直感的方法』です。

中世の人々にとって、お金=核燃料みたいなもんなんだ、このアイデアですよ。本当にすごい。面白い。

ベベン!

どうも思うに、中世の世界においては人々は金・マネーというものを、一種の核燃料のようなものだと感じていたようである。確かにそれは社会を動かす燃料として大きなパワーを持っている。しかしそれはむき出しで放置しておくと社会の中の精神面を拝金主義と言う放射能で致命的に汚染する。             長沼伸一郎『現代経済学の直感的方法』

お金は拝金主義という放射能を放つ核燃料なんですよ。これならすっと理解できます。

ものすごいエネルギーを持つけど、トンデモなく有害で、核拡散の競争が始まると収拾がつかない…頭がおかしくなってしまう…

わかるわかる。

抜群のセンスですよね。

庶民が質素に生きていくのに使われる金ぐらいなら、それはせいぜい天然ウラン程度の害しかもたらさない。しかしそれがある程度1カ所に集中してしまうと、それは濃縮ウランになってしまって放置は危険だというわけである。

うんうん。

そのため中世においては、カトリックにせよイスラムにせよ、原則として利息というものを禁止していた。というより、貯蓄という行為そのものをあまり望ましいことだとは考えていなかったのである。

そのためカトリック教会は基本的に次のような方針をとった。それは余剰の核廃棄物を生み出してしまった人間(要するに金持ち)に対して、そんな大量の金を手元に置いておくと魂が汚染されて地獄に堕ちると脅しつけ、それを教会に寄進させた。集められた金は教会の地下にしまいこまれて世の中に出てこなくなったのである。 

これも、「あぁ!」ですよね。

教会は核廃棄物の最終処分場だったんですよ。みんなが拝金放射能に汚染されないように回収してたんですね。たしかに筋が通ってる。

みんながちゃんと天然ウランを自主的に持ってきてくれるように、引き換えとして天国へ行ける券も配っていたというわけです。賢い。

こうしてスムーズに金を集めた教会は、国全体の半分以上の富を持つことになったと言われています。

しかし、天然ウランが死ぬほど集まった教会では何が起きたのか。

しかし結局この方法は矛盾を来してしまう。それは集中した核物質によって他でもない、聖職者自身の精神に汚染を来してしまったことである。とにかく金と言うのはじっと眠らせておくことが難しい。これだけの資金が集まってしまうと、どうしてもそれを融資に使おうと言う誘惑の手が内外から伸びて来るのである。

というオチなのです。非常に納得。


イスラムは今も上手くやっている

ヨーロッパでは教会が堕落してしまいましたが一方イスラム圏ではもう少し上手いことやっていました。というか、今も上手くやってます。

カトリック教会が意識的に社会を貧しくしようとしたのとは対照的に、イスラムは富というものが社会に行き渡ることを容認した

彼らは「富の集中を阻止することに主眼を置いた」ので、濃縮されなければ世の中に出回っても大丈夫という現実的な策を取ります。

そして彼らがこの目的のために採用したのが「喜捨」という手段だった。要するに金持ちが貧しいものに施しをすることを、信徒の基本的義務に据えたわけである

こんなの機能するかよと思うかもしれませんが、未だにうまくいっているんです。

というより、現在でも中東ではこのシステムは結構機能しているらしく、例えばエジプトなどではいまでも年末になると紳士がお札をたくさん持って街に出て、貧しい人々にそれをばらまく光景が見られるとのことである。むしろ問題は、こういう習慣に悪乗りして巨額の施しを稼ぎ出す「プロの乞食」がいることで、たとえば1991年にスーダンで話題になった凄腕の乞食に至っては、現在スーダン大卒男子の平均初任給の約800年分に相当する資産を乞食稼業で稼ぎ出してしまったというから仰天する(保坂修司『乞食とイスラーム』筑摩書房)

すごいでしょう?

でも、どうしてこれが上手く機能するんでしょう?

もちろん、イスラムの教義が広く信じられているからですよね。それだけ、当たり前になった価値観というのは強力です。

イスラム社会では、お金があるのに施しをしない奴は非道徳的、不信心だとウワサを立てられることになるのです。

ということはつまり、社会の過半数ぐらいがイスラームなら金持ちは喜捨するシステムに乗っからざるを得ないわけです。

法律よりも同調圧(当たり前の価値観)の方が強いんですね。

というわけで僕は思いついてしまいました。

日本でイスラームの教えを普及させる!!

・・・のは難しいので、賢く評価経済の理解を加速させればいいんんです。

どういうことか。


評価経済と喜捨

思いつきを語る前に、現代日本人の当たり前の価値観も見ておきましょう。

内閣府の意識調査などから僕がまとめたてみたところ、日本人は、努力は報われないこともあるし社会は変えられないんだから個人である程度がんばれよと考えていて、それでも成功の要因は運が大きいと考えていて、にも関わらず他人に寄付をすることはなく、権力が嫌いで、会社も学校もゆううつで、友人関係に不安がある人が多く、自分に自信がなく悲観的なようです。

イスラームの世界から見るとなんとも悲惨な。

このように、日本人の当たり前は、悲観的で現実的で個人主義的です。信心がないせいでしょうかね(笑)。

ところが、実は最近、日本人の寄付額は増え続けているのです。

なぜ?イスラム教が普及したからか?

いえいえ、そんなわけはありません。

評価経済社会が普及してきたからだというのが僕の仮説です。

評価経済社会とは、個人が自分の評価(いいイメージ、信用)をSNSでの発信などで稼ぐ競争社会のことです。

あらゆるコンテンツに無数の解釈や評価が添付されていて、それによって社会が動く。

カリスマやインフルエンサーと呼ばれる人たちが、お金を介さずとも大量のヒトやモノや情報を動かすことのできる社会、アップルやグーグルやディズニーランドのような幻想資産(岡田先生の用語です)をたっぷり持ってる企業がシェアを牛耳る社会です。

みなさんも、ともかくいろんなところで評価を集めている人が目立つようになってきているのはひしひしと感じているのではないかと思われます。

この評価経済社会においてはいいイメージを稼ぐことが大事です。

では、

最も手っ取り早く、あんまり突飛な発想のない金持ちや評価持ちでもできる評価の稼ぎ方はなんでしょう?


それが喜捨なのです。


お金を配るキャンペーンや弱者を救済する活動はメディアでも素晴らしいこととして取り上げてもらえることでしょう。イスラーム社会では当たり前すぎて感謝すらされないようですが。

僕のような一般人が早いところ評価経済を理解したらやるべきことは簡単です。さっさと何かしらのSNSで発信を始めることです。

数百人でもフォロワーがいれば十分で、数百人のフォロワーを持つ何百万人もの「普通の人」がインフルエンサーの喜捨を促すんです。


評価経済と実体経済

シェアエコノミーや評価経済が普及すれば、実体経済は縮小して見えるようになります。

お金を介さないモノや情報や仲間の手に入れ方が普及するのがこれらの経済の特徴だからです。

これは、先ほどのイスラーム社会を眺めればよくわかります。

この種の「喜捨」に関しては、受け取った側もそれを当然のこととして、あまりお礼を言わない。このため、表向きの経済統計がかなり悪くても、社会そのものは西欧よりもはるかにそれに耐えられるもののようである。                                                 『現代経済学の直感的方法』

喜捨はやって当たり前、しない奴の方が冷たい視線を浴びる、というような社会であれば、実体経済と社会は相関しなくなるわけです。必ず誰かが儲かってますから、その人たちが分配することになるわけですね。

というわけで、実体経済が縮小しても、社会がうまく回っていれば問題はありません。

評価経済社会でも、おそらく同じことが起きます。

つまり、実体経済はいまいち伸びないのにみんなの暮らしは全体的に安定していくという事態です。

もちろん負の側面もあります。

いちいち知りもしない人間たちの評価に右往左往しなければならず、一度起こした小さなスキャンダルはイメージとしてずっと付加されるようになるかもしれません。会ったこともない何万人もの人から幻滅されるなんてたまったもんじゃありませんね。

それらも含めて人気者の責任と義務といえるのかもしれません。


いずれにしろ、これから本格的になる評価経済社会への不可逆な移行は、僕らの考え方の集積が生み出すはずです。

農業革命、産業革命以来の大変化をどうせなら楽しんで乗り越えたいものですね。





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