押方氏について
押方さんという方が今現在も高千穂におられます。
豊後より大神惟基の長男政次が高千穂へ来られ、初代高千穂太郎と名乗ったのは938〜947年頃とされているので、この頃から土地の名前を苗字にするのが主流だったのでしょうか??
土地の名前を名乗る事で、その土地を支配しているという意味合いもあったのかなと思います。
今現在、土地の名前が残っている苗字は「押方」「田原」「河内」あと、「飯干」もですね。
私が思いつくのはこの辺かなと思います。
あっ、「富高」も日向の富高だったと思いますね。
さて、押方地区には押方さんという方がいらっしゃいますが、国見ヶ丘病院の裏手側には押方地蔵堂があります。
棟札には永禄6年(1563年)のものがあり、三田井掃部介鎮(かもんのすけしげ)宣と共に押方蔵人(くらんど)佐重屋の名があります。
また、鰐口には永禄10年押方刑部少輔重能同蔵人佐重屋親子寄進の銘があります。
18年後の天正8年に同重屋の奉納した鰐口もあるそうです。
この寺域内には五輪塔や宝篋印塔がいくつかみられますが、三田井氏48塁の一つ押方城のあった場所であり、城主甲斐艦昌が三田井氏の不興を蒙り三田井氏に亡され、その後、押方氏が支配し代々豪族の菩提寺としての禅寺として守られたましたが、三田井滅亡し徳川時代に入ると豪族の菩提寺よりも庶民の間に広まった浄土真宗の方が盛んになり、泉流寺が地域信仰の中心となり、ここ地蔵堂である地福寺は本尊が地蔵様であったので、火除け本尊となって残ったものであろうということであります。
その泉流寺も明治4年に廃寺となっています。
三原尾野には成満寺跡も残されています。
さて、押方という苗字ですが、藤原鎌足からでた俵藤太秀郷を祖とする佐藤氏で、代々源氏に仕え、文永6年(1264)に佐藤源太兵衛則光という人が高千穂へ移り住み、居住地の『押方』と名乗ったと言います。
これは佐藤忠治入道道元が高千穂へ入った頃と同じ頃ということで、佐藤氏一族何人かが一緒に入国したのかもしれないと西川功先生はおっしゃられています。
押方氏は鎌倉時代の阿蘇惟時の時代に押方三郎次郎経秀というものが、高千穂を出て阿蘇氏に仕え、300余年の長きにわたり臣事しているそうです。
阿蘇氏に仕えた押方氏は、そのまま押方氏、または砥用氏として肥後に住みついて栄え、その後も活躍される人もいたり、四国方面にもこの一派は栄えているといいます。
高千穂に残った押方氏は三田井氏に仕えた。
というよりかは、現存している文書から客分だったのかもしれないということであります。
肥後甲斐氏、三田井氏が亡ぶと押方氏は肥後加藤清正に一時仕えたようで、清正に従って朝鮮征伐にも従軍しているそうです。
その後は延岡藩に仕え、高千穂郷内の御番所の番人等を勤めたとあります。
御番所は三本松、河内、桑野内波帰、
三ヶ所廻渕、
鞍岡飛瀬口
五ヶ所を交代で勤務したものと考えられます。
今でも押方姓が残っているということは、いかに強い種族だったのかという事が想像できます。
以上で押方氏について終わります。
参考文献
西川功著 高千穂太平記
甲斐畩常著 高千穂村々探訪
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