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田部家にせまる

上野、柚木野(ゆのきの)地区に柚木野神社があります。

所祭神は大山祇神、大年神、御年神、若年神、菅原道真公となっており、御縁起に十社大明神御縁起所也となっており、高千穂八十八社の一つです。

ここの神主を務めていたのが田部氏です。

そして、高千穂神社の十社大明神の鍵役であったと言われています。

この田部家は三毛入野命こと十社大明神が高千穂へ戻られた際、暴れまくっていた鬼八をやっつけた時に丹部宗重、若丹部定重らを従えていました。

これらは、高千穂神社にある高千穂最古の古文書と言われる旭大神文書にでてきます。

鬼八についてはこちらをご覧ください

https://note.mu/kucky918/n/n4cc325123bc0

この田部氏は若丹部の末裔であると言われています。

高千穂神社の祠官も祖の承念から子孫の宗重まで25代は高千穂神社の神主を務めたとあります。

正和3年(1314年)鎌倉時代の下知状にも
「日向の国たかちほのしやう、十社大明神そうしやのかんぬし宗重がところ、ゆのきのやしき」という文書があり、建武元年(1334年)の「定則奉」という文書には「たかちを十社大明神の神主、宗重子々孫々にいたるまで‥」とあり、正和年から建武の頃の十社の神主は宗重であったことは間違いないようです。

1代目承念は若丹部定重と同一だと思われるので、入道していたとみえます。

甲斐徳次郎氏は高千穂太郎と同時代の人と考えていたそうです。

丹部宗重は三田井一の祝子に、若丹部定重、鬼八退治の際にカンスイセキの玉を百八つつないで数珠を授かったとされる旭重高の子孫は二の祝子に分かれ住み、いつの頃からか柚木野屋敷と日之影町岩井川大人へ移り住んだということです。

大人、田部家にはこの数珠が残されているそうです。

現在、柚木野の田部家にあった文書、通称『田部文書』は今高千穂神社に保管されているようです。

屋敷内には十社明神の祠もあり、高千穂神社の祭りの際に鍵役として馬に乗って神社まで向かっていたとのことで、高さ1.3メートルもある立派な馬頭観音像があります。

柚木野地区には毘沙門堂があります。

立像90センチ、鰐口は直径26センチと大きくて、この一帯庚申供養塔や下六地蔵塔もあり、広く毘沙門の森であったと考えられます。

また、柚木野神社下、現在下組公民館の東側に宝暦4年ころ(1751〜1764年)江戸時代、内倉修理太夫の墓もあり、いつの頃か内倉家が柚木野神社の神主となったと思われます。

今回は柚木野を中心にまとめてみましたが、十社大明神のお供の子孫が実際残っているのであれば、神話もよりリアルに感じられます。

恐らく、大分から大神が入ってきて、初代高千穂太郎と名乗ったころに、色々なストーリーが始まったのではないか!?と私は考えます。

#高千穂 #高千穂八十八社 #上野 #柚木野神社 #田部氏 #丹部 #若丹部

参考文献
高千穂村々探訪  甲斐畩常著
高千穂皇神の御栄え  後藤勝美著
高千穂郷八十八社名録  佐藤光俊発行

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