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田の中の伯楽天様

岩戸、東岸寺区、左右殿(そうどの)地区には、田の中に目立った石碑が建っている。

東岸寺とは名の通り、寺号が集落の名前にもなっており、元禄4年(1691)の仏閣法には「薬師、東岸寺村」と書かれているそうです。

開基は1200年頃後鳥羽上皇の第3皇子である寒厳禅師と言われ、天文14年(1545)に三田井越前守親武(三田井家最後の城主)が再建したとされています。

高千穂町内には寒厳禅師の開基といわれる寺が3つあり、ここ東岸寺、後川内(現浅ヶ部)にある徳玄寺、上野の竜泉寺であるという。

扇の峯という場所に寺があったとのことですが、今もその地にあるみたいですが、まだ私は見つけてはいません。いずれ行きたいと思っています。

さて、話を元に戻そうと思います。

左右殿地区にある石碑のことを地元の人たちは「伯楽天様」とか「牛神様」と呼び崇めているそうです。

田の中に建立されている大きな石碑『伯楽天様』

昔、ここ左右殿には有名な伯楽天(今で言う獣医)がいて、牛馬や天馬みで治療したという話が伝わっているそうです。

ある晩、天神から天馬の病を治すように告げられたという。

翌朝、伯楽天は馬針を白紙に包み、天に向けて高く投げ上げると、しばらくして大量の血が降ってきたという。

その日から天馬は回復したということです。

この時の血で赤く染まった岩が地区の方の家の庭に残っているという。

この時の手柄を賞されて、天神より伯楽天の称号を賜わり、以来高千穂郷はもとより肥後、豊後にまで伝わり、牛馬の治療を受け、そのお礼参りに来るなど、跡を立たなかっということです。

今現在の場所に建立されたのは、大正8年ころということで、石工さんの名前も定かではないらしいが、工事の手伝いをした村の人たちの名前としては、馬原儀太郎さん、富士太郎さん、格四郎さん、今朝四郎さんとはっきりしているようです。

伯楽天様は工藤家の祖先とされているようですが、今日まで村の人たちに大切にされてきたようです。

なお、余談として、この石碑は田の中にあるので、移したいと、「ヤンボシ」さん(山伏のことだろう)に見てもらったところ、「他の場所には行かない」とお告げがあったようで、現在の場所にあるということです。

この話は伝説なので、本当かどうかはわかりませんが、伝承として残されているようです。

左右殿地区にある庚申塚 昔の主要道であったとの事

参考文献

高千穂の故事伝説・民話  高千穂町老人クラブ連合会、高千穂町社会福祉協議会発行

高千穂村々探訪 甲斐畩常著


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