芝の又三郎

芝原又三郎入道性虎という人がいる。

この「又三郎」という名前に惹かれてしまった。
「太郎」=長男
という意味があるように何かしらの意味があるのかもしれないが、現時点では分からない。
「又三郎」と検索すると、宮沢賢治著【風の又三郎】が出てくるように、この「又三郎」という響きに惹かれてしまったのだ。

さて、この芝原又三郎とは誰なのか?
ざっくり言うと、吉野南北朝時代(1300年くらい〜1390年くらい)南朝側について活躍した勤王家である。
阿蘇氏、菊池を助けながら、武家方の小弐、大友氏と戦った人物。

名前の通り、押方の芝原地区、西方に古監寺と言うお寺があり、ここの出身とされている。
性虎とは入道名であり、このお寺の住職も勤めていた。

芝原神社
紀州熊野神社を勧請したとされ建立は不明。
この神社から西へ向かうとお墓がある。

興国2年(1341年)後村上天皇の綸旨と懐良(かねなが)親王の令旨が芝原又三郎の元へ伝わった。
そこには三田井入道明覚の跡地はそのまま柴原又三郎入道性虎に与えるとあった。
三田井氏は足利氏側であったので、没収したのではと考えられていたが、実は三田井明覚の子がこの芝原又三郎であり、三田井氏と芝原氏は同じと思われる。
土地を苗字に変える傾向があったからであろうか。
明覚の跡地とあるので、明覚はもう既に亡くなっており、その土地の地頭職が公式に任命されていなかったのである。

その後三田井口の護りとして、子に留めさせ、自分は五ヶ瀬町桑野内へ移った。

高千穂郷をまもるためにも、攻めるためにも、阿蘇氏と1番連絡が取りやすい三ヶ所と桑野内の中間を選んだものと考えられる。
阿蘇氏の拠点は今の一ノ宮町ではなく上益城郡の矢部浜町であったので、中間にある枡形山、城山の要害の地を選んだのであろう。

古戸野神社
芝原神社(熊野三社権現)をここ古戸野に祭り、更に厚福寺と言う菩提寺まで建立した。
そして、この後部には城山とあり、三田井城48塁の1つ、樺木岳城を築いている。

また、横通地区には居館を構えた。
この辺は小芝原という。

性虎八幡宮

その後ろに五輪塔があり、芝原又三郎入道性虎のお墓とその一族のお墓がある。


芝原又三郎入道性虎の一族が相当長い期間で勢力を振るっていたことは、今もなお残っている五輪塔が屋敷の附近と菩提寺の二ヶ所にあり、郡内のどこよりも多く、大きく立派であることで知ることができる。

厚福寺跡と思われる箇所にはこのように五輪塔が残されていた。

なお、芝原又三郎入道性虎は三田井氏の旧名、興梠の姓を名乗っており、三田井氏と興梠氏の関係性が気になるところだ。
このころ、三田井氏の当主は病弱であったので、三田井一族で1番実力のある興梠性虎が三田井氏を率いて活動していたのではないだろうか?
芝原氏という苗字は自然と消滅してしまったが、三田井氏の一族のいたところには興梠という苗字が沢山残っているのはご承知の通りだ。

いつか樺木岳に登ってみようと思う。
西川功著
高千穂太平記より引用

#神社仏閣 #高千穂郷

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