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客席から見える景色⑨ カナメストーン

いちお笑いファンが、客席から芸人さんを見たときに覚えた感覚をエッセイ調で1000文字程度で書いていきます。

第九弾はカナメストーンさん。劇場、ラジオ、YouTubeと最近ひと際応援させて頂いているので。


客席から見える景色⑧

夏の終わり、うら寂しい消波ブロックに真っ赤な風船が飛んでいる。潮風と共に上へ上へ昇って弾けて散るか、萎んで深い海底で落ちていくか。いっそ見届けてやろうと立ち止まる。学校へは行っていないけど、制服のスカートが揺れる。校門までは辿り着いたんだけれども、どうしても気が乗らなくってそのままコンヴァースを人気のないビーチのほうへ向けた。
海辺のほうへ向かう国道は坂道になっていて、転ばないように太腿に変な力を入れて歩いた。私の足音は断続的で、潮風を受けるとプリーツスカートに漣が立った。私は、あの風船はきっと昨日の祭りの残り香ではないかと予想した。浜辺には茶色いビール瓶が転がって、行儀の悪い宴の後が散らばっている。華々しい屋台を彩る装飾品が、撤収されるのを見逃され、遂に自由を得たのではないか。彼は魔法のランプの魔人のように、出し惜しみしていたエネルギーをすばらしく発揮して晴れやかに空を舞っているのではないか。…自由! それはあの風船のように軽やかで同時に甚だしく危険だった。私がこの乳白色をした皮膚を纏っている限り、私たちは更に大きなものに護られていた。
友人は大勢いた。みな心許せる善い人だった。両親や兄弟のことも愛していた。一丁前に恋もしていた。私には手のひらいっぱい充分に幸福を持っていた。しかし私は時折深夜の公園のブランコや南京錠の掛かった屋上のフェンスに憧れた。気ままなバイクの騒音の一つに成れないことは分かっている。そういうふうに振り切って生きる自信もない。でも、もしもたった一日で良いから、あの赤い風船に成れたなら。ただ無色透明な空を昇ることだけを考えて、否、考えることすらせず。面倒に絡まった脳ミソの神経をほどいて、大馬鹿者に成るんだ。遥か彼方の摩天楼を見下ろして、愚かになった私は楽しくって笑うだろう。
私は、私たちは、何者にも成れない。いくら目を瞑ったって、生まれた時から変わらない。私は歴史を変えられない。宇宙の覇者になることはない。ああ、可哀想に、赤い風船はひとたび浮力を失うと瞬く間に蒼い海へ落下していった。後はひたすら抜けるようなブルーのグラデーションが水面と空の境界を曖昧にしている。私はしばらくそのキャンバスの端っこに立って夢想する。私が私を終えて、別の私に変わること。もしかするとそれはとても簡単で、呆気ない事象なのかもしれなかった。灰色の電線が海沿いを鳴っている。私は殊更ゆっくりと踵を返し、果てしない今日へ踏み出した。


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