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幸せの走馬灯

幸せってなんだろう?
そう問うことが増えた恵まれた時代に僕たちは生まれました。

近頃では、物の豊かさや金銭的な豊かさと
個人の幸せとは比例しないという事もあちこちで聞こえてきます。

僕も社員面談の時に
あなたにとっての幸せってなんですか?
仕事を通じて実現できそうですか?
というようなことを定期的に質問をしています。

時と共に移り変わっていくことだとも思いますし
それがひとつであるわけもありません。
僕たちの多くが、自分の幸せとはなんだろう?
と深く悩んでしまうのです。

そこで僕は質問を変えました。

どういう死を迎えたいですか?

お金に囲まれて、自分はお金持ちだったなあと思いながら死にたいですか?
大切な誰かとの暖かい思い出に包まれながら?
自分だけの特別な経験を誇らしく思いながら?
人に優しくできたこと、誰かを愛せたことを喜びながら?

すると、生きている内に何がしたいのか
少し見えてくる人が出てきました。

生きることと、死ぬこと

死ぬ瞬間、生前の記憶が走馬灯の様に駆け巡る。
なんて話をよく聞きます。
この「瞬間」ってどれくらいの長さなんでしょうか?

10秒?
1秒?
もっと短い?

僕たちは、生まれてから死ぬまでを「主観」で過ごしていきます。
それは連綿と続く一本の線の上を歩くように。
その線は自分自身であり、人生なのでしょう。

人は死ぬと、自分の顔を見ることができると言います。
自分の肉体を離れ「俯瞰」するのでしょう。
いままで歩いてきた線の上から飛び上がり
こんどはずっと高いところから線を見下ろします。

ずっとずっと、何十年という時間を歩いてきたはずの長い線も
ぐーーーっと高いところから見ると、まるで「点」の様です。

主観で生きていたときは「長い時間」でしたが
俯瞰で生前を見てみると「ひとつの点」になります。
生まれてから死ぬまでのすべてを同時に見ることができます。

死ぬ瞬間、走馬灯のように駆け抜けた記憶は
蘇ったのではなく、思い出したのでもなく
ついさっきすべてが起こったのではないかと思うのです。

死ぬ瞬間、それは生まれてから死ぬまでのすべての時間です。

どんな死を迎えたいのかを考える時
後悔のない死を望むかもしれません。
あらゆる欲を叶えた死を望むかもしれません。
どんな死を望んだとしても
それは「どんな生き方を望んだか」とほぼ同じ事だと思うのです。

幸せのイメージはなかなかつかみにくいところがあります。
ところが僕は、どういうふうに死にたいかを考えるといろんな欲が湧いてきます。
つまるところ、ぼくはどういう風に生きたいか
本当は多くのイメージ(希望)を持っていて
それを叶えていくことが僕にとっての幸せなんだろうと思っています。

死ぬことは生きること、生きることは死ぬこと。

もし自分の幸せに迷ったら
もし自分の生きることに迷ったら

自分の幸せな死に方をイメージすると
ひょっとすると、何かに気づくかもしれません。

それではまた、
歯、磨いて寝ろよ。


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