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どうして、謝るんだろう。

僕たちはあまりにも多くのことを
「そういうものだから。」
と受け入れてきた。

そしてそれを教えるときも
「そういう決まりだから。」
というきまり文句で教えてしまう。

ぼくが「どうして謝るんだろう」を考えるきっかけになったのは
ひとつのTweetからだった。

3歳の娘から「なんでいけないことしたら、ごめんねって言うの?」
と質問され、3歳の娘になんと教えたらいいのか難しくて困ってしまった。

という赤裸々な告白からだった。

「どうして、謝るんだろう?」

ぼくの話では繰り返し出てくる話だけど
答えも、考え方も100人100とおりあるのだろう。
この「どうして」に正解はない。
正解がなかったとしても
僕は「そうするのが常識だから」を理由に謝ることに後ろめたさを感じてしまった。
僕の心が納得したときはじめて心から謝れる気がしたから

いま、改めて
いや、生まれてはじめて
「どうして謝るのか」を考えてみることにしたんだ。

「ぼくが謝る理由」

いけないことをしたら、どうして謝るのか。
いけないことをした。という自覚があるということは
その自覚の中には

相手を嫌な気持ちにさせたことも
相手に対する申し訳ない気持ちも含まれているのだろう。

許して欲しいという気持ち
許して貰えないと悲しいという気持ち
仲直りできたら嬉しいという気持ち
もともと仲良くなくても嫌われたくない気持ち
嫌われても、反省の気持ちをわかってほしい気持ち
いけないことをして、後悔している気持ち
こんなはずじゃなかった。

右から左までぜんぶの絵の具を混ぜてしまったような気持ちから
開放されたい。

相手を思う気持ちも含めた
「自分の気持ち」をなんとかしたい。
なんとかするための行動として、どういうわけか真っ先に思いつくのが

「とにかくあやまる。」という行動だった。
そこで、謝った時と謝らなかったときの
ぼくの気持ちの予想を並べてみた。

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あくまでも予想だけど

謝ったときの気持ちは「なんとか」なっている気持ちがおおく

謝らない時はなんともならないドコロか、気持ちの落とし所が見つからず逆ギレまでしてしまう始末。(しょうもない男やな)相手をおこらせただけでなく、自分自身にさえ腹を立て怒ってしまう。

まるで時間が止まってしまったように、
謝れなかったあの瞬間と後悔を何度もなんども思い出してしまう。
忘れようとしても、後悔は強くなるばかりで
僕は時間と後悔に捕まってしまったんだ。

少なくとも「いけないことをした自分」を受け止めて、前をむかなければ心を相手に向ける事も出来ない。
1度立ち止まって自分がどこにいるのか確認したい。何をしてしまったんだろう、どうやって歩いてきたんだろう。ぼくの足跡はどこから来たのだろう。

こうべを垂れ、足元をみつめてみる。
「ごめんね、、、」

謝ることは、自分を省みることだ。
謝ることは、自分の心を知る事だ。
謝ることは、自分の心を相手に贈ることだ。
謝ることは、止まってしまった時間と心を動かすことだ。

外に向けているけど
自分の心に向かうことがもう一つある。

「どうして、許すんだろう。」

相手への情け?
同情?

いや、違う。
きっと謝ることと同じで
自分の心の向かって発信をしているんだと思う。

僕も昔は人を許さない事で
周りからも自分からも許されない自分を作ってしまった。

人を許すことを覚えた時、僕が許されたように感じたんだ。

人に対するあらゆる気持ちや行為が
自分に向かうものだとしたら、そう考えることが時々ある。

許すっていうのは多分相手に向かってやることじゃなく
自分の心に向かう心の動きなんだろう。

なんて単純で有り体な言葉になってしまったのだろう。
でも、答えはいつもシンプルだったりするんだろうな。

謝ること(許すこと)=自身の成長(自分の幸せ)

こんな気の抜けるようなシンプルな答えでも
ぼくは意外と納得してしまった。

余談

かいている途中、他にも外に向かってするのに
自分に語りかけるものがあると気づいた。

墓参り
お参り
お祈り

誰かを想うことは自分を大切にすることなんだ。


歯、磨いて寝ろよ。


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