見出し画像

自己犠牲が苦手な私が2児の母に——たった1つの『見返り』を期待して

「ピザ屋さんでぇ〜す!どれにしますか?」

娘が最近ハマっている、ピザ屋さんごっこ。笑顔で「マヨネーズたっぷりのアンパンマンピザ!ポテトとナゲットもつけてくださいね」と答えながら、心の中では「またこれか」とため息。

ひとり時間が好きで自己犠牲の苦手な私は、微笑ましいはずの娘とのやりとりに疲れることがある。嬉しそうな娘を前に「自分の時間がほしい」と願ってしまう、そんな自分が嫌いだ。

そして、自分に否定的な言葉を投げかける負のループへ。

こんな私を親に選んでくれたのに、子どもがかわいそう。私は母親失格。自己中心的で嫌な奴!

……もうすぐ2児の母になるのに。シャンとしなきゃ。そんなぐらぐらのメンタルで目にしたSNSの投稿に、心がざわついた。

「子育ては最短20年解約できないサブスク。代わりに得られるものって何?」

子育てをサービスや商品と同列に考えることに驚いたけれど、どこか共感した。事実、子育てにはお金も時間もかかるし、一度始めたら簡単に投げ出せない。自己犠牲が苦手なら手を出せないはず。

私も考えはじめた。「代わりに得られるものって何?」「何?」「何?」

子どもの性質や家庭環境、湧き出してくるかわからない母性抜きで「確実に得られるものって何?」「何?」「何?」

(((娘がくれた喜びから、自分の子ども特有の要素を差し引く作業)))

ん、まぁこんなもんだ。

(((あらゆるリスクを想定して、さらに不確実な要素を差し引く作業)))

あ…あれ……?????

「見返り」って「子どもの存在そのもの」だけじゃない?

生まれてきてくれたこと、そこで生きていてくれること。たったこれだけの「見返り」しか期待できないのでは。

きっと、現実的に妊活を議論している人たちは、最短20年解約できないサブスクで確約されるのが「子どもの存在ただそれだけ」と気づき、戸惑っているんだろう。

こうやって言語化すると、シャンとする。自信を持って2児の母になれそうな気がしてきた。

……なぜなら、「子どもの存在ただそれだけ」は侮れないと知っているから。

「子どもはかわいいよ〜」とか、そういうのじゃない。人がひとりそこにいるだけで、新たな地図を手にしたかのように世界が広がる。知らない場所の地図を見るのは、純粋に楽しい。

たとえば、私がうんざりしている娘のピザ屋さんごっこ。何度もやっていると、娘がこの遊びを通して安心感や達成感を得ようとしていることに気づく。

「何度繰り返してもママが付き合ってくれる」「してもらってばっかりだけど、ママに喜んでもらえた」彼女が、彼女の地図を冒険しているところを見せてもらえる。

「はよ終わらんかな」と思っていても、彼女がクエストに成功し心を満たした瞬間に出会うとハッとする。子育てには自己犠牲の側面もあるけれど、私はこの瞬間に魅せられているんだ。

人によっては、自分の地図を深める方が楽しいかもしれない。子どもの地図じゃなくてもいいのかもしれない。私にとって子どもの地図がおもしろい、ただそれだけ。

そういえば、理科や倫理の授業が好きだった。何に役立つかわからなくても、生物の成り立ちや人の思想を、ただ知りたかった。自己犠牲が苦手でも「知りたい」が根幹にあれば無限に頑張れたんだ。

これからも日常のあれこれに疲れて「ひとりになりたい」と思う日がくるだろう。でも私は「知りたい」を満たしてもらえるなら、大丈夫。子どもが、新しい世界を見せてくれる。

責任感が強いとか定職に就いているとか。ひとりめを産んだときは、まともそうで曖昧な言い訳を並べていた。

今は違う。「自己犠牲の苦手な私でも子どもを産んで育てられる」こんな自信が湧いてきたのは、娘が地図を共有してくれるからだ。

子どもを産んで良かった。ふたりめもきっと育てられる。私は、大丈夫。


かつてないマタニティブルーと前駆陣痛に悶えながらの出産前夜祭、おしまい。

この記事が参加している募集

ご覧くださり、ありがとうございます!