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けじめ

(🖌まーちゃん)


恋でも愛でも執着でも、夢でも目標でも。
長く自分のなかにあったものにひとつ区切りをつけるというのは、なかなか難しい。

仕事終わり、残った業務を明日の自分に任せて、私は家と逆方向の電車に乗った。
今日は後輩の演奏会。その後輩のひとりに、久保ひなたという女がいる。
いつもは【チームクボのクボ】としてお笑いをしている彼女だが、どうか今日だけは【ひなたちゃん】の顔をしていてほしいと、私はなぜか切に願った。

私がチームクボのスタッフと名乗りはじめて1年半。もともとただ仲の良い先輩後輩の間柄だった私達の関係も、今や顔を合わせる度にライブとネタの話をして、飽きてきたら山盛りの悪口を言い合うものへと変化してしまった。
楽しいし心地よいけれど、いつだって焦燥感と緊張がつきまとう“友達”ではないこの間柄は、悪くはないが少し寂しい、と思ってしまうのは贅沢な悩みだろうか。

久保も私も、元々トロンボーンという楽器を何年もしていた。ふたりとも音楽高校出身で、同じ大学出身で、同じ恩師を持つ。
ふたりはそれぞれかなり長い間、多分本気で音楽をしていて、多分、どこかのタイミングで諦めた。
彼女は音楽の代わりに『お笑い』をする楽しみを見つけて、苦しさやもどかしさを知りながらも毎日もがき、笑い、夢を見ている。

この演奏会に出てくれないか、という連絡がクボに来たとき、私は出演を強く勧めた。
「けじめやから。」と言葉を添えて。
それは、私自身がずっと後悔していたことだった。

大学を卒業後、私はなんとなく音楽を辞める決心がつかなかった。
仕事をしながらずるずると練習してみたり、演奏の機会がもらえた時は仕事を調節して舞台に上がったりした。
卒業したから。プロではないから。
そんなことで簡単に手放すには、音楽にかけている年月があまりにも長すぎた。

これまでの人生で、私は“音楽をしていること”になんども救われた。
辛いときに打ち込むことがあることの幸せ。孤独を加速させてくれたシベリウス。
本気になった吹奏楽も、劣等感ばかりが膨らんだソロの演奏も、これでは食えないと気づいたオーケストラも。努力ではどうにもならないことを教えてくれた私の人生の教科書だ。
音楽をすることが本当に好きだった。

しかし仕事の傍ら舞台に上がる度に私を襲うのはいつだって途方もない虚無感だった。
もう好きじゃない恋人と連れ合うような、話が合わなくなった友達と惰性で会話をしているような、つまらないけど離れられないもどかしさ。
楽しくないし、嬉しくない。いろんなことを言い訳にして、いつしか楽器ケースの蓋を開かなくなってしまった。

あんなに執着していたのに、あんなに愛していたのに。
なあなあに、適当に音楽との関係を終わらせてしまったことを、私はずっと後悔している。

あの演奏会で終わらせていれば。あの日に諦められていたら。
私と音楽が一緒にいた十数年を、無駄にしなくて済んだかもしれない。

そう思っていたからこそ、エゴだとは分かっていても、区切りとして、そして“けじめ”として、演奏をする機会がクボにあれば良いな、となんとなく思っていた。

しかし、そんな思いとは裏腹に、“けじめ”をつけさせられたのは私の方だった。

久しぶりに足を運んだ演奏会は、思った以上に私の心を揺さぶった。
楽器を持つ手に伝わる振動を、目を合わさずとも感じ合える興奮を、うまくいかなくても止められない緊張感を。今この瞬間楽しんでいる人たちが目の前にいた。
涙で霞む目に映る、久々に演奏する久保の姿は、あの頃、生駒先輩と私を慕ったひなたちゃんで、昨日舞台上で悔しさにうちひしがれていたクボだった。
全部地続きで、全部繋がっている。

あーあ。と思った。
そうだった、私は音楽が好きだったんじゃない。
今しかないこの瞬間と、それを共有できる存在がいるという事実を、どうしようもなく愛していただけだったんだ。

諦めたつもりで、形を変えて追い続けている夢がある。
私は通いなれたホールの客席で、ひとり、ひっそりと音楽に“けじめ”をつけた。

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