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下手でもいいから聞かせてよ。

(🖌️まーちゃん)

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クボさんに勧められた本を読んだ。
自分からは選ばないタイトルの本でめちゃくちゃワクワクしながら読んだら、超恐くて最悪で気持ち悪くて楽しくて、「あーこれが娯楽だ」という感じがした。最高だった。
一気に読み切るタイプの読書をすると、かなり元気いっぱいになってしまう。
こういう出会いはいつだって嬉しいし、私が私を生きてるって感じがするな。

読書家ってほどではないけれど、昔から小説を好んで読む。昔はあまり読まなかったエッセイも、最近は読みたいと思うようになった。
本が好き、というよりは、自分以外の人が書いた文章を読むのが好きだ。

小説はやっぱり紙が好きだけど、エッセイは夜中に真っ暗な部屋で、光る画面を見つめながら読むのも好き。
自己啓発本やビジネス書も、うるせえけどたまには良い。
賞レース近くの芸人さんのアツいつぶやき、誰かが書いた観てないライブのレポ、「落ち着けって……」とお茶を出したくなるような熱烈批評も全部良い。

どんな形でも、どんな動機でも良い。
誰かの本当の思いが乗った文章は、いつだって人の心を曝して、誰かの心を動かす。
ストーリーに隠したテーマも、憎しみや悪意も、思想や日常の思い付きも、何かを大好きな思いも。
「この気持ち、誰か聞いてくれ!」と綴られた言葉たちは、その巧拙を問わずどこか魅力的で、ありがたい。
私を楽しませ、時に傷つけ、憤らせ、癒し、そして救ってくれる。

いつからそう思うようになったのか、長い間思い出せなかったけれど、このあいだ部屋を片付けていたら、その答えがひょっこり顔を出した。
私にしては珍しく、きれいにファイリングしてわざわざ実家から持ってきた、高校3年生の最後の国語のテスト。
久々にそれを手にとった私は、今日までこれを大切にとっておいた私のことが好きだなと思った。

ほとんどの生徒が進路も卒業も決まって、先生も私たちも消化試合みたいだった高校最後のテスト期間。最終日の現代文も例に漏れず、ワークブックから簡単な問題だけが出題されるボーナスステージみたいなテストだった。
当時担当だった現代文の先生は粋なおじさんで、最後の問を「国語表現のコーナー」と題し、解き終わって暇なら、なんでも良いから書け。とちょっとしたスペースを設けた。
すごく簡単な問題ばかりの、ボーナスステージみたいなテスト。
それなのに、ほとんどのクラスメイトが、チャイムが鳴るまでペンを置かなかった。

採点とともに、先生が丁寧に赤ペンで感想をつけてテストを返してくれたのと同じ日に、クラスのみんなが書いた文章が、誰のものか分からない状態で配られた。
高校生ともなると、友達が書いた文章を読むことなんて早々ない。恥ずかしさと好奇心が混ざった感情に包まれた教室は、思い返しても結構異様だったと思う。
妙な高揚感の中、私はひとつひとつ、辿るようにみんなの「国語表現」を読んだ。
青春のおわりを憂いた文章、弟への愛を語る言葉、複雑な家庭環境を嘆く恨み節…
どれも誰にも、何にも似てない、みんなの“自分だけの気持ち”がそこにはあった。
その全てが「今」を切り取ったみたいな言葉の集まりで、みんなの知らないところに触れられた気がして、恥ずかしくて、嬉しかった。

私はというと、はじめてクボのnoteでエッセイを書いたときと同じように、「書けない」ことを綴った短い文章を書いていた。
恥ずかしい。18歳から書けないことを書き続けて24歳になったと思うと、我がことながら居たたまれない。
もちろん先生は、そんな私の駄文にも感想を書いてくれた。

「文章を書くときのとまどいと、客観化と自己表現とは、いつもセットになって表現者に襲いかかってきますが、ひとつひとつ頑張って書いていくことが、人の心を打つよい文章に繋がっていきますね。」

音楽以外にも好きなことが多いのは良いことです、頑張ってください、と締められたその感想は、なにかを言葉にするときの私の背中を押してくれる、大切な言葉になった。

高校も大学も卒業してしまった今の私は、『チームクボのまーちゃん』ではない時間、広告を書いてお金をもらっている。
私は自分の文章も好きなので、毎日山盛り文章を書いて、キャッチを考えて、読んで、「ええやないか」と自画自賛して世に送り出す仕事は、まあ悪くない。

そこに載せるのは私の思いではないけれど、私が紡いだ言葉たちだ。
「良い文章」に出会えると嬉しい。
だから私も、出来るだけ読む人に「良い」と思ってほしくて、ちゃんとターゲットに合わせて、工夫して言葉を選ぶ。

《中身はなんでもいいよ、トップのとこだけ目を引く感じで。》

続きを知りたくなる、引きのある文章で、構成もしっかり作りたい。あのとき聞かせてくれた思いや願いを、ちゃんと形にしたい。

《前と同じで良いです。今回の取材は形だけなので。》

ぱっとみた感じでワクワクして、興味をもって貰うには、どんな言葉が良いんだろう。

《若い子は文章読まないんで。てか誰も読んでないから、とりあえずあげてくれたら良いです。》

なんでもいい、形だけ、誰も読んでない。

こだわりや、思いはいらない。
とりあえず入稿できればそれでいい、誰にでもできる、誰がやっても良い仕事。
そうじゃないと願いたいのに、“そう”だと突きつけられてしまう瞬間は、綴った言葉と一緒に私もないがしろにされているみたいだ。

私は作家でも、エッセイストでも、脚本家でもなんでもない。会社に所属しないと、言葉でお金も貰えない。未成熟で、不勉強で、ライターと名乗るのもおこがましい。
でも、そんな半人前でも、うわっつらだけなんとなく体裁を整えた、それっぽいものだけを求められ続けるのは多分、全く求められないことよりも、悲しくてやるせない。

整っているだけの文章なんかより、下手くそでも、めちゃくちゃに、殴り書いたあとが見えるような思いや気持ちがある文章の方が、何倍も何百倍も力があるのに。
そんな言葉だけが救う、誰かの明日があるのに。

私はそれを確かめるために、本を読み、エッセイを読み、人が書いた文章を読む。
上手くても下手でも、美しくても整ってなくても、誰かの伝えたい思いに触れている時間が、私は好き。

誰かが“気”のない言葉に溺れそうになったとき、「読みたい」と思える言葉を綴れる人になりたい。
手癖で書ける部分が増えてしまった原稿を叩きながら、今の自分とは程遠い理想を、叶わぬ夢みたいに願ってしまう。

「ひとつひとつ頑張って書いていくことが、人の心を打つよい文章に繋がっていきますね。」

18歳の私にくれた、先生のなんてことない言葉が、溺れそうな24歳の私を引き上げてくれるような気がした。

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