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ダブルバインドに疲れ果て。(毒母と友達の間で揺れる私)その3

 私は、次の日から妙子ちゃんにばれないように他のクラスメイトに招待状を渡し始めた。
 無理だった。
 すぐに、ばれてしまった。
「どうして私だけ呼んでくれないの?」
 悲しそうな眼で、私を見つめる。
「妙子ちゃん、お家遠いから・・・」
 とっさに思いついた言い訳。無理が、ある。しょっちゅう自転車で遊びに来ているのだから、そんな方便は通用しないのだった。
 何度も何度も頼まれた。妙子ちゃんの気持ちは、痛いほどわかる。クラスで自分だけ、招待されていないのだ。それも、理由もよくわからずに。
 私は母の本心に気づいていたけれど、本当の理由を言ったら妙子ちゃんに一生抱えてしまうようなトラウマをお見舞いすることになる。子供心にそんなことはすべきではない、と心得ていた。 
 さて。
 その分、私は苦しんだ。妙子ちゃんと母の間に挟まれ、一体どうすれば良いのかわからなかったけれど、何とかしなければ大変なことになってしまう。
 私は、母が忙しくしていない時間帯を見計らって頼んだ。
「妙子ちゃんも、誕生日パーティに来たいって」
 私を睨む母。
 いかにも嫌そうな深いため息。その時どのような会話が取り交わされたのか、全く記憶にない。パニック状態に陥っていたからだと思う。
 とにかく許可をもらわねば。
 卑屈なまでに、下手に出る私だった。
 なんとか許可をもらったのだと思う。不安な気持ちのまま当日になった。考えてみれば、悲しい。楽しいはずの、しかも初めて開かれる誕生日パーティをこんな感情を抱きながら、迎えるのである。
 妙子ちゃんは、「シートン動物記」のプレゼントを手に、一番乗りで来てくれた。
 私がまだパーティ用の服に着替える前の到着で、母はそれも気に食わなかったようだ。妙子ちゃんは、部屋の隅に立っていた。その姿が所在なげで、今でもはっきりと思い出せるほど切ない光景だった。

 パーティのことも強烈だったけれど、妙子ちゃんに対する日々の冷たい態度も私の神経をさいなんでいった。妙子ちゃんに申し訳ない気持ちがつのり、電話が鳴る度にまた母のあの口調を聞くハメになるのだろうか? とびくびくしていた。
 ある日何かの拍子に妙子ちゃんに母のことを愚痴ったことがある。
「うちのお母さん、厳しくて嫌なんだよねー」
 不満な部分を、ちょっとぼかして嘆いたら、妙子ちゃんは、
「なんでー? いーいお母さんじゃないの」
 と言った。
 びっくり。
 そんなふうに思っていたとは知らず、つい顔をまじまじと見つめてしまった。妙子ちゃんは、私を励ます意味で言ってくれたのかもしれない。
 ありがたいことだ。
 それなのに。
「妙子ちゃん、あなた私のお母さんからすっごく嫌われてるのよ」
 と思ったら、泣きそうになってしまった。けれども、泣くわけにもいかず、ものすごく我慢をしたのを覚えている。
 母のやっていることは、鬼にも勝るひどい仕打ちだったのではないか。本当に大人としてありえない。
 小学校卒業間近、妙子ちゃんは私に長い手紙をくれた。その中には離婚のこと、それに伴う様々な辛かったことが、たくさん書かれていた。
 そして最後の部分。
「人は、父がいないからダメだって言います。だけど私はそんなことは、はねのけて生きていくし、中学へ行っても絶対に不良になんかならないから」
 と強い調子で結んであった。
 妙子ちゃんも、本当に大変だったんだな。この時期、人と環境が違うのは、世界の終りのような疎外感を感じてしまうもの。それは、私が身に染みて体験している。
 母が働いているだけで後ろ指をさされた時代。そのような違いを、なるべく隠して生きていくのが、他の友達から浮いた存在にならず無難に過ごせる唯一の方法だと思っていた。
 妙子ちゃんも、そうだったのだと思う。それが証拠に、中学に入学してから配られた全校生徒の名簿にはお父さんの名前が載っていた。
 今では信じられないけれど、住所、電話番号はもちろん、両親の名前まで掲載された生徒名簿が配布されていたのだ。
 だからそれを利用して、ちょっと気になる他学年の男子の住所を調べたりもできた。
 妙子ちゃんには年子のお兄さんがいたのだけれど、彼の方はお父さんの名前は空欄だった。それを考えると、妙子ちゃんがお母さんに頼みこみ、両親が揃っているように書いてもらったのだろう。切ない。
 それを見た私は、小学校時代に引き続き、母には妙子ちゃんの家の事情を黙っていようと決めた。

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