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犬に論語とエトセトラ

On ne reçoit pas la sagesse, il faut la découvrir soi-même, après un trajet que personne ne peut faire pour nous, ne peut nous épargner.
(We don't receive wisdom; we must discover it for ourselves after a journey that no one can take for us or spare us.)
── Marcel Proust (1871-1922)

https://marcel-proust.com/extrait/520

写真は今月一日まで実家で飼っていた犬です.ゆっくり休んでね.



動機・目的


作業中に聞いていたゆる言語学ラジオで出てきたことわざ「秋の鹿は笛に寄る」「鳴かぬ蛍が身を焦がす」が良いなと思って,類似する動物を使ったことわざや慣用句などを調べたり,思い出したことなどを記録した.


ことわざと慣用句の違い


慣用句とことわざの厳密な定義を知らなかったのでまずこれを調べた.分類が難しいものがあるが,慣用句は「二つ以上の言葉を組み合わせて,元も言葉とは全く違う意味でつかわれ」,ことわざは「古くから言い伝えられてきた教訓や知識,いましめなどを短い言葉で表したもの」であるらしい.

「二つ以上の言葉を組み合わせて」がなんだかどこかから拾われてきた言い回しのような気がしたので調べた.デジタル大辞泉には「二語以上の単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すもの。『油を売る』『あごを出す』の類。イディオム。慣用語。」とあり,この冒頭部を見たのかもしれない.


ラジオ紹介のことわざの確認


本題に入る前に先の二つのことわざの意味を忘れないために調べておく.
前者の意味は弱点につけ込まれて利用されやすいことであり,秋の鹿は発情期で鹿笛でもホイホイ寄ってくることからだそう.

ラジオの堀元さんの反応的に真偽が怪しかったので調べたが,鹿の発情期はちゃんと秋で安心した.9-11月ごろに発情した優勢なオスが数頭のメスを囲い込み,5-7月に出産.平均寿命が7-8年で成獣には2-3年でなるとのこと.つがいを見つけられずに彷徨っていたところで鹿笛につられて狩られる鹿を想像すると同情する.

後者は出典の日本語が良いのでそのまま引用した.「激しく鳴きたてる蝉よりも、鳴くことのない蛍はかえってその思いの激しさに身を焦がさんばかりに光っている。外に表す者よりも、じっと内に堪えている者のほうが心中の思いははるかに痛切だというたとえ。」
自分は自分の考えを文章にして発信するのは好きだが,思い/想いを伝えるのは苦手なので琴線に触れる表現である.

出典は埼玉市立中央図書館さんが調べてくれていましたのでありがたく孫引き.「今日の民謡の直接の祖ともいうべき、江戸中期の六八か国、三九八首の民謡を集めた『山家鳥虫歌』には、よく知られた「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」(初出は室町時代の歌謡集『閑吟集』。一五一八年)という歌が収められている。」というのが岩下均の『虫曼荼羅』に書いてあるそう.

リンク冒頭の都都逸(どどいつ)は「文化元年(1804)常陸国久慈郡磯部村中宿(現在の常陸太田市磯部町)で生まれた初代都々一坊扇歌によって確立された,「七・七・七・五」の二十六音を三味線に合わせて唄う俗曲の一つです。江戸時代末期に江戸の寄席で人気を集め,大流行しました。」だそうだ.


動物を使ったことわざを調べる


ようやく本題.上の記事を読んで面白いと思ったことわざをさらに調べた.なお目次でネタバレしてしまっているが,本記事で深堀りするのはタイトルの「犬に論語」のみである……


「犬に論語」


「どんな道理を説き聞かせても効果がなく、むだであることのたとえ。」馬の耳に念仏,豚に真珠,猫に小判,兎に祭文の犬バージョン feat. 論語である.こういう人間がありがたがっているものを動物におしつけては意味がないとバカにする表現が豊富にあることに人間の傲慢さを感じる.


バリエーションの意外な出典


こういう故事成語みたいなものの出典はどういうところからきているのだろうか,と思いとりあえず豚に真珠を調べてみると,なんとこれはマタイによる福音書に由来するそうだ.同等な英語の言い回しに”Do not cast your pearls before swine.”というのがある.大変そうなのでどの時期に何語で入ってきたのかは調べないでおく.

(なお,知らないだけで明治時代やそれ以前に外国語から訳されて取り込まれた取り込まれた言葉というのは漢語に限らず無数にあるので,良く存在を耳にするが実際にはお目にかかったことのない若者の日本語が乱れている論者に出会ったらこういう訳語について質(詰)問するのが最近の夢である.例として「科学」「哲学」などはじつはこれである.)


日本語から飛び出す


マタイ伝の該当部について気になったので英語版 Wikipedia も見てみた.なおマタイというのはヘブライ語の読み方で,英語では Matthew(マシュー) である.(キング牧師の名で知られるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)の名前が宗教改革で知られるマルティン・ルター(Martin Luther)から取られているなど,日本ではゆる言語学ラジオでいう究極の出典の言語を参考にしたカタカナ語が普及しているために,英語の読み方を徹底する英語圏でカタカナ語読みしてチンプンカンプンみたいなことがあり,これは数ある自分の留学中の苦労話の一つである.閑話休題.)

以下 KJV(欽定訳聖書) からの孫引き.4世紀前の英語と触れ合う機会はあんまりないと思うのでチャレンジ.多くの見知らぬ語彙や構文はやや困惑する.
”Give not that which is holy unto the dogs, neither cast, ye your pearls before swine, lest they trample them under their feet, and turn again and rend you.”

こちらは WEB(World English Bible) から,ずいぶん読みやすいはず.
"Don't give that which is holy to the dogs, neither throw your pearls before the pigs, lest perhaps they trample them under their feet, and turn and tear you to pieces."

ここでは論語ではなく神聖なもの(that which is holy)を犬に与えるなとある,一万年前から人類とよろしくやっている犬君が一体何をしたというのか...…

https://www.science.org/doi/10.1126/science.aba9572

ちなみにこれの翻訳元のコイネー(ギリシア語の一種,新約聖書の言語)だと
《μὴ δῶτε τὸ ἅγιον τοῖς κυσὶν μηδὲ βάλητε τοὺς μαργαρίτας
ὑμῶν ἔμπροσθεν τῶν χοίρων μήποτε καταπατήσουσιν αὐτοὺς
ἐν τοῖς ποσὶν αὐτῶν καὶ στραφέντες ῥήξωσιν ὑμᾶς》

この《κυσὶν》という言葉が《κ(Kappa)》から始まるため,英語の"canine"とかラテン語の"canis"(どちらも犬/イヌ科)の元の語なんじゃないかなあと勘で検索したら大正解だった.《κύων》の与格複数形.

この語は印欧祖語 (Proto-Indo-European) の *ḱwṓ からきており,まさにこれが先述のラテン語 "canis" やなんなら k が h になってドイツ語の "hund" (そこから英語の "Hound") にも派生するらしい.しかしながら何よりも悲しむべきは,元は雌犬を意味する蔑称の英語の B ワードと同じ使われ方がこの語でもされている事だ.なぜまたしても犬なのか……


豚,人間,コウモリ,おわり

なお,先のコトバンクの説明には「この豚はかなり獰どう猛もうな獣のようで、今日の「豚に真珠」の豚から受ける印象とは相当な隔たりがあるといえるでしょう。」とあるが,これはゆる学徒カフェのゆる生きものラジオ(現在は行動学生態学ラジオ)の動物裁判の回が記憶に新しいので別段衝撃的でもない.1456年にフランスのブルゴーニュ地方で5歳の少年が家畜の豚に食い〇され裁判になった事件が紹介されている.なお動物裁判であるが被告人は一応所有者で,しかし結局刑罰(実質死刑)は豚に課された.

ここでブレーズ・パスカル(1663-1662)が主著パンセで「人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし人間は考える葦である.」と述べたのを思い出した.知性や理性,そしてそれが生み出した武器によって地上の多くの動物を蹂躙してきた人間であるが,身一つで自然に放り投げられる状況を仮定すると人間はまさに彼が言うように「もっとも脆い葦」でしかなく,他の動物に蹂躙される側の存在である(範馬勇次郎みたいなのがいるのなら話は別).また現に,自然災害のいくつかに対してはなすすべがない状態であるので,テクノロジーによって平和ボケならぬ全能感ボケにある自分(「我々」はテクノロジーの恩恵に与れていない/積極的に与ろうとしていない人々のことを考えると主語として大きすぎる気がした)はこの事を心に留めておくべきなのではないのかと思った.「犬に論語」などと動物を小ばかにしているが,それは非常に狭いものの見方であり,人間中心主義的なナルシシズムである.

結びの主張が弱すぎるのと単純に僕が文章を終わらせるのが絶望的に苦手なので,僕のお気に入りのおもしろ論文「コウモリであるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」を紹介して本記事を終了させていただく.この論文は意識の主観性を科学の客観性に還元できないことをコウモリのたとえを用いて議論する,すなわち科学が万能でない事を批判する重要な論文である.全能感ボケや動物を使ったたとえの紹介というコンテクストを考えれば本題から完全にズレているとは言えないと思うので,ぜひご一読ください.

ここまでお付き合いいただき感謝します.オチの書き方は書きながら勉強します.こんな感じの取っ散らかった備忘録を細々と投稿していきますので,フォローして頂けると幸いです.


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