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私の知らない私が私を狙う。

書きかけのnoteが2つほどあるが、その続きを書く気にはなれていない。

「今日」から始まる記事は、その瞬間に書きあげてしまわないと完成させることができないのかもしれない。
惜しいことをした、せっかく途中まで書いたのに。まあ書いてみたことに意味があるか。そう思いつつ、新しくnoteを書き始める。

個人のささやかな日々の取り組みや挑戦は、社会や他者と対峙する際のストレスの前では風前の灯火だ。
私の努力など、大多数から見ればまだ何もしていないのと同義なのではないかと思う。
全員に適合する社会など無いのだから、自身に適合する社会を探す、作る、見つけてもらう、などしたら良いと思うのだが、なかなかそううまくはいかないのが実情、そんなことがやすやすとできてしまうのなら、社会不適合者なんていう社会が一つしか無いみたいな言葉は必要ない。

人間の世界は、なにかしようとすると、相手の都合を考えなくてはいけない。無理を言っては相手を不快にさせてしまうが、相手の無理を聞いては都合よく利用される。その間でバランスを取りあって、縦横無尽に走る人間関係の綱渡りを日々延々と繰り返すのが社会での生き方なのだろうか。

私は人と関わるのが怖い、誰かと関わりを持つと、私の行動によってその人になにかしらの影響がでてくる、逆もしかりだが、誰かから影響を受けることに関しては大して何も思っていない、はずなのでおいておく。
誰かに影響を与えてしまうということは、その人にとっての私が定義されていくということ、記憶の一部分に私が残ってしまうこと。もし迷惑をかけたり、不快な思いをさせてしまったら、その人の中で不快な存在として残ってしまうことになる。それが、浅い関係であればあるほど、悪い点だけが薄く残るように思う。
大きなミスや失敗であったとしても、時間が経てば相手は忘れているもんさ、なんて言われる。小さなミスであればなおさら、誰も覚えていない、大体の人は相手にそもそも興味がないからね。
そうかも知れないし、実際にそんな気もする。しかし、私は嫌なことがあったらそれなりに覚えているし、不快だと感じた相手のことは10年経っても思い出す。相手に興味なんか無い、むしろ早く忘れたい、思い出したくなど無いのだけれども、忘れてくれないのだから仕方がない。何かの拍子に、似た事例に遭遇した際に、ズラズラと昔のことが頭を巡るのだ。
私の実体験としてこうなのだから、相手がそうならないと断言する事はできない、可能性として常に存在し続ける。
不快な印象を抱いた人間のことをなにかある度に思い出すなんて、最高に不快な事態は誰だって避けたいだろう。
そうして考えていくと、誰かと関わることで、私がその最高に不快な状況を与えてしまう可能性が無いとは言えないわけで、これが仕事中の失敗などになってくると、私と一緒に勤め先の企業にまで不快な印象が結びついてしまう。
誰も得をしない地獄を生んでしまう可能性が怖い。

私は他者から認知されることが怖い、視線を感じると勘ぐってしまう。
私のことを知っている人物であれば、どんな印象を持ってその視線を向けているのか、知らないのであれば、なんの意図で見ているのか、暇なのか、気になることがあるのか、何を感じるのか、不安になるのだ。
例えば靴屋に行く、洒落たキレイなスニーカーで出迎えてくれる店員は挨拶の動作に合わせて私の履いている靴を確認してくる。靴を売っているのだから、客の履いている靴を確認することは変では無いのだが、私はとても不安な気持ちになる。自分に自信が無いから不安になるのだろう、他者の評価を気にしているのだろうか。おそらく評価はどうでもいい、ただ何を思ったのかが気になるのだ。
基本無関心を望む私は、中途半端な好奇心で認知されたり近づかれたり踏み込まれるのが耐え難い、だから視線を向けられることがもう怖い、たとえ5秒後に忘れられていたとしても。

私のいないところで、私のことが話題に上がり、そこで私の知らない私が形成されていることが怖い。
昔の話、小中学校の頃、この時期のこどもはあまり物事を深く考えていないことが多いのか、噂をすぐ事実のようにする。
[例え話]
「お前6年の頃〇〇のことが好きだったんだろ?いまはどうなの?」
中学に入って言われた、私の感想は、
誰それ?
あとお前は何者?
誰から聞いた?
私に伝えることで何を期待してる?
そもそもその相手は私を認識しているの?
と言った感じだった、普通に不快だし、意図がわからない、くだらない、人間怖い、どう返事してもいい状況にはならない。
お前らの中で私はどうなってんだ?と気持ち悪くなる、他者からの視線にそうした思考が混じっているのかもしれないと思うと不安になる。

仲の良い人たちが私のいないところで私の話をしているのも怖さはあるけれど、それは大丈夫だと言い聞かせている、私は私でここにいる私しかいないので、私の知らない私と会うのが嫌なんだと思う。本当の私を知ってほしい訳では無い、本当の私なんてものはない。今の私しかいない。
私の知らない私と、過去の私は似たようなものだ、過去と今では違う私になっている。肉体も細胞レベルで見れば別物だし、思考も思想も行動も、今に持ってきた時点で捻れたり歪がでたりして正確さはない。

誰かと関わるたびに、新しい私が誕生していく、そうして過去の私が生まれたり、単純化してずれた私が増えていく。その印象で今の私を観察すると、当然乖離がある。
私は自分を大切にしたい。できれば、どこかで誕生している私も健康であってほしいと思う。しかし、全てを把握することもメンテナンスすることも良好な関係を続けることも不可能に近い。だから、どこかにいる私が、誰かにとっての毒になっていないか気がかりというか、薄っすらとした恐怖と、なぜ感じているのか正直意味不明な罪悪感がずっとある。

いじめの問題は未だになくならない、被害者は一生苦しむが、加害者は翌日には忘れている。
そういうものだと見聞きするし、いじめに関する調査で、加害経験者より、被害経験者のほうが多いデータを過去に見たが、それによく現れていると思う。多くのいじめは主犯と大勢の加害者と一人の被害者という割合だと思うのだが、データでは逆転している。
いじめは行う側が悪いと考えている、弱者であることを自覚したうえで、自身を強者であると盲信したい願望が勝てる相手を見つけて弄ぶという腐った思考を生んでいると思うからだ。
ただ、加害者側は、弱者であることを自覚していることに無自覚なことがあるようにも思う、そうした意味で、なにかの被害にあっているのかもしれない。
私は被害にあった記憶はあるが、加害者側になった記憶はない、しかし加害経験がないと言い切ることはできない。加害者は覚えていない事が多いのだから、私の些細な言動によって誰かが傷ついていたとしても、私には知る由もないのだ。

被害者の私としては、加害者に今会ったのなら刺してもおかしくないのではないかと思う、実際に刺すわけでは無いが、そう思うくらいには、被害者側は長い期間苦しむことになると理解してる。
相手が覚えていないことにも、反省もせずにのうのうと人生を謳歌していることにも、未だに生きていることにも、耐え難い苛立ちを覚えるのだ。
今なお思い出してはこうして気持ちが沈むのだから、これが逆の立場であったのなら、と考えて怖くなるわけだ、
私のことを加害者として認識している人がいるとすれば、その人にとって私が今こうして生きていることに関しても苛立ちを覚えるだろうし、今まさに覚えていないと書いていることにも絶望するだろう。

私と会うことで不幸になる人が増えるのなら、私はできるだけ人とは会いたくない。
過去の私を持つ人と出会ってしまうことが増えるのなら、私はできるだけ外には出たくない。

他者の中で生まれる私、他者の視線から感じる不安。

他者からではなく、他者の中にいる私から狙われているような感覚。

無駄に余計なことを考えすぎて人と関わることが難しくなっていく私と、新たな関係を次々と作っていかないと生きていけない人間の世界。

生きづらさの解消には、生きづらさと向き合うだけの強さが必要なのかもしれない。逃げる行為もまた動きであり、変化には今と向き合う強さがいる。


不安はあって当たり前のものだ、現代人は人間の世界と自然の世界があったときに、関わる割合が人間の世界に偏りすぎている。
人間の世界との関わりを減らし、花鳥風月、自然の世界にもっと目を向けることが大切だ。と聞いた。

生まれた時からアスファルトとコンクリートにまみれた人間の世界で生きてきた私には、自然の世界は憧れの存在でありつつ、実態のつかめない恐怖の対象でもある。自然のなかに身を置くと、癒される。それは間違いないが、同時に人間の世界では起こりにくい問題と直面しがちである。その状況で本当に落ち着けるのかと聞かれたら、休まりはしない。と答えるだろう。


私が直面する生きづらい現実の問題は、世の中に溢れるあらゆる諸問題と比べれば大したことはないのかもしれない。

調べたり考えたりして自身を更新していく努力は、周りからしてみれば、行動に移していないことと何ら変わりないだろう。
そうこうしている間にも、人間の世界で生き続ける限界は迫ってくる。
このゲームをどう遊ぶのか、一人でPvPを繰り広げていても仕方がない。


私を刺そうとしている人は、私の中にいる私かもしれない。私をいじめているのは私かもしれない。加害者と被害者が同居していれば、そりゃ問題も起こるよね。
私は、私と協力して、私のために生きられるようにしたい。


それっぽくまとめた気になって、お茶を濁して今日は終わろうと思う。

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