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生きづらい個人と社会の生きづらさ

生きづらい社会で生きづらさを感じる私、ではないのかもしれない話をしたい。

ここ数日、友人と会ったり、大学を卒業したり、バイトに落ちたりして、多くの気づきがあった。
簡単にまとめるなら、卒制の時点では社会に向いていた「生きづらさ」というテーマを“私”に向けてみた。社会への違和感ではなく、違和感を抱いている私自身に注目してみた。
そうしたことで、今まで「学生」だった私のポジションに「繊細」という特徴が見えてきた。そんな話。


卒制の視線と課題

芸術大学に通っていた私は、先月の卒業制作展で「カフェと生きる身体」という作品を展示した。
生きづらい現実から逃れ、生きやすい現実に向かうために、カフェという場とともに生きることを提案するもので、視点を変えることで作り手になることを提案するものだった。

作品全景

この作品を完成させるために最も苦労したのは「表現」の部分。
表現をしたくないという思いから、ギリギリまで作らない方法を探していた。
「誰かに伝えたいと思わない」「考えた結果をまとめるのはつまらない」「なにがしたいのかわからない」
そうした感情と向き合いつつ、社会に違和感をもつ“学生”として、自身の生き方について悩んでいる人、考えていない人に向けて、表現を行った。
この作品を通して私は、私が何をしたいのかを見ることができなかった。


我に返る、続く対話

作品の中で、対話がとても重要であると書いた。というより、あの作品は対話の重要性をひたすら訴えているのだが、作品中で内的対話(自身との対話)について書いておきながら、私は、自分自身との対話をあまり行っていなかった事に先日気がついた。

きのぴーという友人がいる。大学で知り合った、表現をすることが好きな人だ。
先日会う機会があり、そこでどうして表現を行うのかを聞いた。その時に出てきた解が「作品を通して行われる他者との対話を求めているから」だった。

きのぴー(twitterへ)

作品という表現物を媒介して意味のやりとり、思考の更新を行う。そうした他者との対話によって自身を客観視する。
私は疑問や違和感があった場合に、納得がいくまで調べるか、見当もつかなくて諦めるかに始終していた。過去の自分との対話により、問いの解を見出し、自己完結させて消化させていた。

そこに今の私との対話はなかった。

見つけた問いに対し、どうやって解けば良いか、どんな解が私にとって最適解か。そうした事は考えてきたが、肝心な私自身について、私ははっきりと理解しようとしてこなかった。

人には対話が必要不可欠だ、対話によって自己を形成している以上、切り離すことはできない。

私が表現を拒む理由、表現ができない理由。
それは、自己を見ようとしていなかったから、ではないだろうか。
わからない自身に向き合うことが、表現への最初の一歩なのではないだろうか。
むしろ、自身のことを考えずに表現なんて可能なのだろうか。
そうした事を思い、あたらめて対話の重要性を、きのぴーとの対話で知ったのでした。


なので私は、「私について」知ろうと思う。


最近よく聞く繊細さん(HSP)

私について知るために、まずは作品の中心にいる「生きづらい」というワードをそのまま検索してみた。すると、繊細さん(HSP)という最近よく聞くワードがヒットした。
聞いたことあるなと思いつつ、繊細さんと生きづらさがどのように関係しているのか知るために、解説記事などを読んでみたりする。
YouTubeで繊細さんについて調べると、関連する本の要約とか、繊細さんYouTuber?とかがたくさん出てきたが、そのなかで気になる動画があった。

繊細さんの気になるリスト100(百の三)
ピース又吉さんの【渦】というYouTubeチャンネル。
インスタントフィクションという400文字文学の企画動画を以前見て面白かった記憶があったので気になったのと、サムネイルの「~という声が怖い」の一行が目に止まった。この「怖い」という感情に馴染みがあった。

1本目を見て、ああ、これかもしれない。そう思いつつ2本目、3本目と見ていき、気がつくと全23本すべてを見終えていた。
感想は「それな~」しかでてこなかった。
普段から当たり前のように感知していた物事が、ズラズラと言語化されていく、まるで謎解きを体験しているかのような高揚と納得感に包まれていた。

こうして私は、自身が「繊細」であることを知った。



ネットの診断をやってみた

ネット上には、自己分析をするためのツールが色々転がっている。それらの情報を鵜呑みにするのは恐ろしいことだが、自身と似た判断を行った人々にどのような特徴が多いのかを知ることは、自身を理解する上で非常に役に立つ。
これらの診断ツールの質問を見ていくと、こんなの選ぶやつが存在するのか?と言いたくなる問いがちらほらある。見つけるたびに、普通なんて存在しないんだと少し安心できた。
SNS上では、似た検索結果の人々が溢れており、人口の数%って書いてあったが、みんなだいたい同じじゃん?と思うことがある。しかし、こうした診断ツールをやってみたくなる人、というのは、そうした特徴を持っている人であり、結果を共有している人々が似たような診断結果になっているのは、ある意味必然なのかもなと思ったりした。


過去にTwitterで回ってきたこちらの診断では、INFP-T「仲介者」だった。
人口の4%と言われているが、この診断をした人は、INFP率が高いのではないかと思う。

もう一つ、こちらの診断では、タイプ5「調べる人」タイプ9「平和をもたらす人」タイプ4「個性的な人」の順で強い傾向が見られた。

どちらの診断も、納得、共感する部分が多かった。どの人も100%〇〇タイプだってことはないと思うので、いろんなタイプの説明を読んでみて、どんな特徴を併せ持っているのか、確認してみると面白いと思う。

これらの診断はあくまで目安であって絶対ではないし、Wikipediaでは各診断の批評が載っていたりするので、それらも見つつ、ひまつぶしにでもやってみたら面白いかもね、と思う。


生きづらい特徴を持った人にとって、その特徴を持っていない人が中心の社会が生きづらいのは、ある意味仕方がないことだ。
そうしたときに、無理に社会や自身を変えようと動くのは得策ではないと考える。
やはり私は、まず逃げる事を考えたい。
繊細さを許容させたり克服したりするのではなく、繊細さを受け入れてくれる場所に身を置くことのほうが、歪が生まれずに済むだろう。


京都でお気に入りの喫茶店


ここまで書いて、私は作品について私自身が過去に書いた文章を読み返してみた。
すると、誰かに伝えようと書いていたはずの以下の文章が、まるで私に伝えようとしている文章に見えてきた。

カフェとは、逃げる場であり、眺める場であり、挑める場であると言える。
これらの機能により、カフェと生きる身体には、現実の見え方、考え方、生き方に変化が生まれる。

見え方の変化とは、腰を下ろし落ち着くことによって、今抱えている問題の前提に対して疑問や違和感を持つことで、現状に問いを立てる、現実を崩す方法(アイデアの構造)を知ることである。

考え方の変化とは、他者もしくは自身との対話により価値観を更新することによって、自身を軸として社会を見渡すようになることで、疑問への解を探る、現実を創る方法(デザインの構造)を知ることである。

生き方の変化とは、アイデアとデザインの構造を駆使し、現実と在る方法を見つけることで、クリエイターになることである。

カフェと生きる身体とは、カフェを利用することで生きづらいと感じている現実から逃げ、対話によって自身を更新し、クリエイターとして生きやすい現実へと向かう一連の流れであり、カフェと共に生きる日々の在り方の仮説である。

カフェと生きる身体 より

冒頭で、私はこの作品を通して自身がなにをしたかったのかがわからなかったと記載したが、私はこの作品・表現を通して他者と対話し、自身と向き合うという視点に立つことができた。
私は今、ようやく鑑賞者として、この作品と対峙する事ができている。

15分の砂時計


私は、この作品を通して私と話がしたかったのかもしれない、と今はそう思っている。



過去、あるいは素材、もしくは死体、かもしれないモノたち。


22/05/20
以下追記

今日エゴグラムというものを知った。
適当にポチポチ押していくと、W型、とのこと。
NPが高いので、Wか?とも思いつつ、W型の人は他の診断ではINFPとかタイプ5とからしい(合ってる)ので、まあW型なんですかね、と思っている。
FCの値がぶっちぎりで低くて笑った。


エゴグラムについて↓

3つの各診断結果の特徴↓


おすすめ品。 「マグカップ」 飲み物を飲むとき、どれで飲んでも同じだと思っていませんか。 カップって、厚みとか飲み口の形とかで、感じる味わいが変わってくるんです。 ワイングラスなんか典型ですよね。 私は、物によって味が変わるという言い訳を使い、マグカップを増やしています。