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【短編小説】傘姫

    今回は、三題噺のお題「砂漠」「ピアノ」「傘」で書いてみました。

 なんでまた三題噺かって?

 三って数字、なんか好きなんですよね。


0

 鳴り止まない拍手と、熱狂の渦の中に、まるで一輪の花が咲いたように、彼女は立っていた。
 スポットライトを一身に浴び、その姿は、まるで夢の中に迷い込んだように非現実的だった。 彼女の傍らに置かれた黒い傘だけが、その異様なまでの可愛らしさの中で、唯一、不釣り合いに思えた。
 彼女――傘姫と呼ばれているピアニストは、 淡いピンク色のワンピースを身に纏い、ふわりと膨らんだスカートの裾には、レースのリボンがいくつも飾られている。すらりと伸びた白い腕には、同じくピンクのリボンが結ばれ、まるで妖精の羽根のようだった。
 彼女のトレードマークである、ピンク色の髪は、丁寧にカールされ、おとぎ話のお姫様のように愛らしい。小さな顔は、透き通るような白さで、吸い込まれそうなほど大きな瞳は、まるで夜空の星のように輝いている。
 愛らしく、可憐―― そう形容するほかない、その姿は、とても複雑な感情を抱えた人間のそれとは思えなかった。
 やがて、彼女が鍵盤に指を置いた瞬間、会場全体の空気が一変した。
 彼女の指が鍵盤の上を駆け巡る。それは、まるで嵐の夜の海原を縫うように激しく、それでいて、一滴の雫が葉先を伝うように繊細だった。
 轟轟と、ホール全体に鳴り響く重低音。
 きらきらと、星空のように煌めく高音。
 それらが複雑に絡み合い、一つの物語を紡ぎ出す。
 彼女の演奏は、もはや音楽の域を超えていた。それは、喜怒哀楽すべての感情を飲み込み、巨大な渦となって、聴く者を圧倒する、魂の叫びだった。
 完璧な演奏だった。
 技巧、構成、そして感情表現…すべてにおいて、非の打ちどころがない。
 彼女の心象世界は、一体どれほどの広がりと豊かさを持っているのだろう。
 ――彼女の音楽に触れた者は、誰もが、そう錯覚した。
 僕もまた、その一人だった。

1

 鳴り止まぬ拍手の余韻が、まだ耳の奥に残る。あの日の衝撃から、どれだけの時間が経っただろう。あまりに鮮烈で、それでいて、どこか儚げな彼女の演奏は、まるで幻のように、僕の記憶を捉えて離さない。
 僕は、彼女のことをもっと知りたいと思った。あの完璧な演奏の裏側に隠された、彼女の本当の姿を。
 しかし、僕の前に立ちはだかったのは、 音もなくそびえ立つ、高い透明な壁だった。
 朝霧 澪――。
 プログラムに記された、その名前は、 まるで朝霧のように、掴もうとすればするほど、 僕の指の間からすり抜けていくようだった。
 インターネットを駆使しても、 彼女に関する情報は、驚くほど少ない。
 ファンサイトはおろか、SNSアカウントすら存在しない。 音楽関係者に聞いて回っても、「謎に包まれた存在だ」と、 言葉を濁されるばかりだった。
 まるで、彼女は最初から、この世に存在していなかったかのように――。
 彼女のプロフィールは、 公式ホームページに掲載されている、 最小限の情報だけ。
 生年月日、出身地、受賞歴。 どれも、事務的な文字の羅列に過ぎず、 彼女自身の心の内を、 覗き見ることはできなかった。
 唯一わかるのは、彼女がいつでも、どこでも、手に持っている傘のことだ。

 晴れの日も、曇りの日も、雪の日も。 
 一体、彼女はなぜ、 自らの存在を、 ここまで隠そうとするのだろうか?

2

 まるで、ジグソーパズルのピースを探すように、僕は、彼女のかつての足跡を辿っていた。
 古い音楽雑誌、新聞のコンサート評、関係者のブログ…。
 断片的な情報をつなぎ合わせていくうちに、彼女のキャリアの軌跡が、少しずつ見えてきた。
 デビューは、若干14歳。
 弱冠16歳で、国際コンクールで優勝。
 まさに、華々しい経歴だった。
 しかし、数年前に遡ると、その輝きは、少しずつ色褪せていくように感じられた。
 「彼女の演奏は、完璧だが、どこか冷たい。それは、感情の砂漠に咲く、氷の花のようだ」
 音楽雑誌で見つけた、その言葉が、胸に深く突き刺さる。
 関係者からも、同じような言葉を耳にした。
 「彼女は、心を閉ざしてしまった」
 「もう二度と、ピアノを弾くことはないだろう」
 まるで、かつては豊かに湧き出ていた泉が、今では枯れ果ててしまったかのような、そんな言い様だった。
 洪水のように、僕を圧倒した、あの日の演奏は、一体何だったのだろうか?
 それは、本当に、彼女の心の叫びだったのだろうか?
 それとも、乾ききった心の奥底に、ただ虚しく響く、こだまに過ぎなかったのだろうか?
 不吉な予感が、僕の心を、静かに覆い尽くしていく。

3

 古い音楽雑誌の記事を頼りに、僕は、かつて傘姫が練習に使っていたというスタジオを探し当てた。しかし、そこは、すでに廃墟と化していた。
 ひび割れたコンクリートの壁。くもの巣が張った窓ガラス。錆びついた鉄製の扉。
 かつて、この場所で、あの美しい旋律が紡ぎ出されていたとは、 とても信じられなかった。
 重い扉を押し開けると、かび臭い空気が、僕の顔を撫でた。
 広いスタジオの中は、がらんとしていて、 彼女の面影は、どこにもなかった。
 ただ、静寂と、埃と、時が止まったような、寂しさが、そこにはあった。
 「はーい」
 少し間を置いてから、奥から優しい声が聞こえた。
 扉を開けると、白髪の年老いた男性が、優雅にピアノを弾いていた。
 「あの…桐生さんでしょうか?」
 僕が尋ねると、男性は、ピアノを止めて、ゆっくりとこちらを向いた。
 「はい、そうですが…」
 男性は、僕をじっと見つめ、一瞬、怪訝そうな表情を見せたが、すぐに、何かを察したように、 顔色を変えた。
 「…あなたも、澪ちゃんの演奏を聴いて…」
 「はい。 彼女のピアノに心を打たれ、是非、お話を伺いたいと思いまして…」
 僕がそう言うと、 男性は、 深くため息をついた。
 「…彼女のことなら、話したくありません」
 「え…?どうして…」
 「彼女は、もう、 過去のものです。あなたも、これ以上、彼女に関わらない方が…」
 男性は、そう言うと、 再びピアノを弾き始めた。
 しかし、彼の奏でる旋律は、先ほどまでの、優雅な響きとは違っていた。
 それは、どこか悲しげで、痛々しい、そんな旋律だった。
 僕は、意を決して、口を開いた。
 「先生、どうか、お願いします。 僕には、どうしても、彼女に伝えたいことがあるんです…!」
 「…伝えたいこと…?」
 「はい!彼女の演奏は、本当に素晴らしかったです。あれほどの感動は、今まで味わったことがありません。彼女は、きっと、とても豊かな感性の持ち主なんでしょう」
 すると、男性は、哀しそうな目で、僕を見つめ返した。
 「…あなたは、何もわかっていません…」
 「え…?」
 「彼女は… 不器用で、大人しい子でした。 あの子は…決して暖かいとは言えない家庭環境で育ち… 親御さんからの愛情も、ないに等しいようなものでした…」
 男性は、少し間を置いてから、静かに語り始めた。
 「…そんな彼女にとって、ピアノは、唯一の心の拠り所だったんです」
 「心の拠り所…?」
 「ええ。あの子は、ピアノを弾いている時だけは、辛い現実を忘れ、自分自身を表現することができたんです」
 「…」
 「彼女がピアノを始めたのは、当時、仲の良かった男の子がきっかけでした。その子もまた、音楽が好きで… いつか、一緒に演奏したいと、言っていたそうです…」
 「しかし…」
 「ええ… その矢先、彼女は、親友だった女の子に、裏切られてしまったんです…それ以来、」
 彼の言葉が、重く、僕の胸に突き刺さる。
 彼女の心は砂漠だった。それも、僕が想像していたよりも、はるかに深く、広いのかもしれない。

4

 桐生先生の言葉は、重く、僕の心にのしかかっていた。彼女の友人はその男の子に接近し、彼女の思いを知りながらも、自分のものにしてしまう。彼女はその事実を知り、深いショックを受けたようだ。愛を知らずに育ち、裏切られ、ピアノだけが心の拠り所だった彼女。想像を絶する心の砂漠が広がっているに違いない。
 それでも、僕は諦めきれなかった。あの演奏は、決して「虚しいこだま」なんかではないはずだ。
 わずかな情報を頼りに、僕は彼女にインタビュー依頼の手紙を書いた。
 事務所を通して届けられた手紙は、数日後、数日後も、返事がなく。

 その後も、手紙を何通か書いたが、すべて沈んでしまった。
 予想はしていたものの、心が痛む。広大な砂漠に蒔かれた一粒の種が、芽吹くことなく乾いた砂に吸い込まれていくような、そんな無力感に襲われた。

5

 僕は、諦めきれずに、彼女が姿を現すかもしれないコンサートホールや、桐生先生のピアノ教室周辺に通い詰めていた。
 しかし、彼女の影すら見つけることはできなかった。
 まるで、あの日の演奏は、 夢だったのではないか――。
 そんな、 諦めに似た感情が、 心の隙間から、 静かに広がり始めていた。
 取材を終え、雑踏の中を歩いていると、ふと、目の端に、見覚えのある黒い傘が映った。
 あの日、コンサートホールで見た時と同じ、大きな黒い傘。
 そして、その下には――。
 ピンク色の髪。
 愛らしい横顔。
 紛れもなく、傘姫の姿があった。
 「朝霧さん…!」
 僕は、思わず、その名を呼んでいた。
 彼女は、ゆっくりとこちらを振り返った。
 驚いたように、目を見開く彼女。
 生気を失い、乾ききった、虚ろな瞳。
 彼女は、何も言わず、再び前を向くと、静かに歩き始めた。
 人混みの中、黒い傘だけが、ゆっくりと、 遠ざかっていく。
 僕は、我に返ると、彼女を追いかけた。
 「朝霧さん! ちょっと待ってください!」
 しかし、彼女は、立ち止まることはなかった。
 まるで、僕の声は、届いていないかのように…。
 僕は、必死に、彼女の後を追いかけた。

6

 息を切らしながら、僕は公園にたどり着いた。人混みを縫うようにして追いかけてきたが、彼女の小さな姿を見失ってしまいそうになるのを必死で追いかけてきた。
 彼女は、人気のないベンチに座り、俯いていた。街灯の光が彼女の周りをぼんやりと照らし、まるで世界から切り離されたように孤独に見えた。彼女のトレードマークであるピンク色の髪が、その光に照らされ、まるで燃え尽きそうな炎のようだった。
 「朝霧さん…」
 僕は、彼女の前に立ち尽くし、静かに名前を呼んだ。
 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。乾ききった瞳は外界を映さず、深い孤独を湛えているようだった。
 「…あなたは?…」
 か細い声だった。まるで、長い間、誰とも口をきいていなかったかのように、彼女の言葉は、途切れ途切れだった。
 僕は、彼女の隣に座り、あの手紙に書いた言葉そのままを、彼女に伝えるように語りかけた。
 「朝霧さんの演奏を聴いたあの日から、僕はあなたのことを考えています。あの旋律は、悲しみ、苦しみ、孤独…様々な感情を呼び覚まし、僕の心を揺さぶりました。」
 彼女は、じっと僕の言葉を聞いていた。驚いているようにも、怯えているようにも見えた。しかし、その表情はどこか遠くを見つめているようで、本当に僕の言葉が届いているのか、確信が持てなかった。
 「…そんな、大袈裟に構わないでください…。」
 彼女は、自嘲気味に呟いた。
 「私みたいな人間が、何を考えているかなんて、全然面白くないですよ…。」
 僕は続けた。
 「桐生先生から、あなたの過去を少し伺いました。もしも、あなたの心が砂漠だとしたら…僕は、その砂漠を旅したい。」
 彼女の硬い表情が変わり始めた。
 「…あなたは、私のこと… 知りたいのですか…?どうして」
 初めて目が合った。
 「人を知りたいなんて、理由はいりませんよ」
 彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は、長い間、乾ききった砂漠にようやく訪れた、一滴の雨のように見えた。
 その言葉は、長い間、誰にも届かなかった、彼女の心の叫びだった。彼女は、誰に見つけて欲しかった。
 傘の後ろに隠れて、ずっと、こんな言葉を待っていたのかもしれない。

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