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二番風呂の権利 - 日記

「ゆびえするのは嫌だよ。」

小説から顔を上げると、部屋の引き戸の口に榊原が立っていた。
無精髭を生やし、肩までかかる長い髪は波のようにうねっていくらか逆立って皮脂の汚れで光っている。眼鏡は指紋で曇ったまま拭かれていない。上下の揃わないスウェットの上から厚手の半纏を羽織っている。上半身と対照的にスウェットを捲って生の脛を出していた。靴下も履かず、毛やら伸びた爪やらを見せている。寒いなら靴下を履けばいいのに、とわたしは思った。いつもの小汚さだった。
榊原は片手に急須を持っていた。後ろの廊下には電気ケトルで湯を沸かされている。いつもの玄米茶だろう。わたしは眉を顰めた。電気ケトルは茶色い汁のようなもので薄汚れている。コーヒー用のもので、その先細った注ぎ口の中は更に汚れているはずだった。誰がいつ置いていったものか定かではないし、なんならゴミ置き場から拾ってきた可能性もあった。一見おしゃれなケトルなので、後者の可能性の方が高そうだ。寮はそういったがらくたで溢れていた。

ゆびえ、ゆびえ。湯冷えとすぐに変換できた。
先ほど、わたしは寮の風呂に湯を沸かした。ニヶ月ぶりのことだった。




寮の風呂は、古い浴槽とホースにヘッドをつけただけのシャワーといった簡素なものだ。浴室は全面に青の丸いタイルが貼られている。寮の奥にあるトイレの壁を壊して後からつけられた風呂だった。風呂の外には小さなボイラー室がある。隙間風が多く、小さな浴槽のお湯は男が5人も入れば簡単に濁る。浴槽にお湯を溜めるのは一日に一回の決まりだった。快適とは言えなかったが、自治会費を払えば50円で入れるのでわたしはよく利用した。入る前は浴槽を確認して、10人目くらいの濁りなら近所の銭湯を使った。

ボイラーは学校によく止められた。自治会費の中に学校に支払う光熱費が含まれる。寮の中は物と人でごった返していた。寮生がいるかいないかわからない、誰が寮生かもわからない。集金担当の苦労は想像に容易い。いや、もう諦めて怠惰になっているのかもしれない。学校に支払いが遅れることはよくあった。学校側の担当者がボイラーを止めに来ても、寮生は抗議するでもなくぼうっと窓から眺めていた。

ボイラーを止められて二ヶ月。年末になり、暖房もないあばら屋にはいられずほとんどの寮生は早めの帰省か別の寮に避難をしていた。同室の鴨居も昨日の昼に熊本の実家に帰った。わたしは鴨居の布団を畳んで端に寄せ、こたつをそばに置いて背もたれにした。畳んだ布団の上に枕を置くと本を読むのに良い角度になった。薄汚れて黒くなった木枠にガラスをはめただけのような質素な窓から、雪がちらつくのが見えた。一人でこの五畳の空間を使えることに少し興奮していた。
あまりにも寒すぎるので、光熱費の足りない分を残っている寮生でカンパしたいと自治会長が提案した。集金担当は中途半端に集めた金を封筒に残し、既に帰省していた。自治として良い対応だとは思わなかったが、寮の風呂に入れるという嬉しさに喜んで支払った。
学校の担当者は自治会長に急かされてやってきた。嫌なのか寒いのか、顔をしかめている。ボイラー室の鍵を開け、動かした。窓から小さな歓声が上がった。ボイラーが再開しても、誰も風呂の話をしなかった。風呂に入れるという理由で追徴金を支払ったのはわたしだけのようだった。寮生は皆二ヶ月の間で別の風呂サイクルができていた。

風呂を見にいった。汚い。二ヶ月間使っていない上、前回使用して掃除もしなかったんだろう。水垢や人の垢がまばらにこびりつき、その上に隙間風から運ばれてきた土埃がうっすら被っていた。なぜか枯葉や虫の死骸もかさかさと落ちている。これは掃除をしないと入れない。
暖房が復活した共用のロビーに何人かの寮生が集まっていた。暖を取りながら談笑している。わたしはその輪に入り、「風呂に入ろうと思う。」と高らかに宣言した。湯を入れるには一応複数人の寮生の許可が要る。「掃除をするので、一番風呂に入っていいか?」
寮の風呂のグレードはここいらで一番低い。二ヶ月ぶりだとしても、隙間風が通る風呂に誰も対して惹かれていないようだった。「どうぞ。」と一人が言った。お好きに、というのが語尾についた言い方だった。輪から抜けると後ろから、「熱く入れてくれれば、後で入るかもしれない。」と呼びかけられた。言われなくても熱くするつもりだった。

汚れは見た目より簡単に落ちた。近くの薬局で買った風呂用洗剤を撒いてタワシで擦る。虫や枯葉は窓から捨てた。溝や排水溝は歯ブラシで汚れを取り、ざっとシャワーをかけて、砂埃と一緒に流した。タイルの青がきらきらと光った。
あらかじめ湯は沸かせておいた。45℃に設定し、蛇口を捻って湯を入れた。指先で温度を確認する。良さそうだ。腕時計を見て自室へ戻った。そしてこたつに入って読みかけの小説を開くやいなや、榊原が声をかけてきたのである。「ゆびえするのは嫌だよ。」と。




「湯冷え」というのは多分「湯冷め」のことだろう。
冷えは「湯冷め」から「底冷え」が連想されてやって来た。二つは同じ名詞+動詞の複合名詞で、榊原の中で混じって絡まり、動詞部分が交換されてしまった。結果「湯冷え」が排出された。残された部分で生まれた哀れな「底冷め」がふわりと頭の上に飛んで消えた。

発言の意味を理解しないまま、「寒いのが嫌なら入らなければいいんじゃないか?」とわたしは言った。
「君には感謝しているんだ。ぼくも久しぶりに青の洞窟に入りたいと思っていた。」青の洞窟とは寮の風呂のことらしい。榊原のぬるりとした髪の毛を見る。3日は入っていないだろう。
榊原は自治会費を払わない寮生の筆頭だった。するりするりと集金担当の突撃をかわし、追い詰められてとうとう捕まっても払ったら死ぬという態度で延滞の懇願をした。自治会費を払わないのは、金が無いからに他ならなかった。先ほどの光熱費収集の臨時の集まりにも、榊原の顔はなかった。そもそも、榊原が寮生なのか、何歳の何学部なのか、わたしは知らなかった。

「うんと熱くしてくれただろうね。」
一連の発言は『僕は君の次に風呂に入るつもりだが、熱い風呂に入らないと湯冷めしてしまう。それは嫌だ。湯を熱くしたんだろうな?』という意味のようだ。
自治会費を数年払っていない榊原が、追徴金まで払い風呂を洗って湯を沸かしているわたしに偉そうにできることは一つもないのだが、榊原は釘を刺すようにわたしに言った。だが、わたしは熱い一番風呂にさえ入れれば、後に誰が入ろうとどうでも良かった。
わたしは小説に目を戻し、「したけど、他にも次に入りたそうな奴がいたよ。」と言った。「なんと。不届き者がいるな。」わたしは少しむかりとした。今いる他の寮生は追徴金を払っている。不届き者はお前だろう。

わたしは「湯冷え」のような、単語と単語を混ぜて言い間違えるということはしたことがなかった。もし無い言葉を使うとすればわざとだ。
榊原はよくこういう無い言葉を作ったり間違えたりすることがよくあった。場にそぐわない、芝居がかった言葉を使うこともあった。寮生は慣れていて、誰も指摘する人はなかった。皮肉でもなく、榊原のアイデンティティと言えた。本人はわざとなのか気付いていないのか、気にしていないように思えた。

小説に栞を挟む。五畳の小さな楽園と青いタイルのオアシスの幻影が、少しずつ崩れてきていた。居心地の悪さを感じ、湯量が気になっていることにしてこたつから出た。汚い玄米茶を貰いたくなかった。
榊原の横を通る前に、顔をまっすぐ見て「湯冷め、ね。」と言った。
榊原は表情を歪めた。眉間に皺が寄り、太い眉が釣り上がる。唇はむっと前に出て、曇ったレンズからもわかるほど目を開いていた。瞬く間に顔が紅潮した。
驚いた。榊原は恥と程遠い人間だと思っていた。他人から何を言われようがどうでも良いのだと。だからそういう態度を取っているのだと。
「あぁ、そうね。湯冷め、湯冷めだった。」と言って榊原は顔を背けた。榊原は言い間違いによる恥だけでなく、何かに顔を背けたように見えた。わたしが小さな悪意を持って言い間違いを指摘したことに気付いているようだった。
もしかしたら榊原は、他人に面と向かって何かを言われるということが今まであまりなかったのかもしれない。恥じないのではなく、恥に気付きづらい人。
榊原は玄米茶が入った急須にやっとお湯を入れた。わたしがどうして悪意を持って接したか、榊原が気付いているとは思わなかったが、表情は申し訳なさを含み、口を突き出してやや下を向いていた。わたしは目を逸らした。

足を半歩風呂に向かわせ、ほんの少し決心した。「玄米茶を一杯、冷ましておいてくれ。風呂に入った後、飲むついでに呼ぶ。」とわたしは言った。
榊原はぱっとこちらに顔を上げた。いつもの榊原だった。
「これが世に言う茶冷めだね。待ってるよ。」とニタっと笑顔で言った。
何にもかかっていなくて、また少しだけむかりとした。


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