アーキテクチャとコミュニケーション #1

◆人々の行動を枠にはめ込む都市としての「東京」

しろくま 第6章です。P200からは信号無視の話ですね。田舎育ちの平成生まれである私にとっても、信号無視や道路横断は日常茶飯事でした。修学旅行で東京に行ったときに、友だちと信号無視して渡り、クラクションを鳴らされたのが衝撃的な思い出でした。

うえむら 田舎の旧村が残っている街だと、道が狭いから渡りやすくて、東京は拡幅しているから渡りにくい、という話もあるのではないのかな。

こにし いや、東京の人は1車線道路でも渡らないですよ。けっこうちゃんと信号を守りますよね。

しろくま 道が狭いという要素は関係ないですね。逆に田舎は2車線道路でも信号無視して渡っていました。クルマが来ない隙を狙って。

こにし ついでに言うと、都会住まいでも関西人は信号守らないイメージがあるのですが、東京人と何が違うんでしょうね。

うえむら 関西というか、大阪じゃないの。

しろくま 「赤信号みんなで渡れば怖くない」の合い言葉で。

こにし 大阪の人はマジで信号守らない。都会住まいでも違うものだなと。

うえむら 大阪はクルマも人も守らないから。クルマだと「名古屋走り」という言葉もありますよね。アレは荒いだけで一応信号は守っているのか。人間のマナーが良いのは、クルマのマナーが悪いからという仮説もあるね。

しろくま 死ぬから。

うえむら そうそう。でも東京はクルマも人間もマナーが良い。

こにし アレは何なのでしょうね。確かにクルマのマナーが悪かったら、歩行者側は自重せざるを得ないですね。クルマが赤信号を無視してきたらもうどうしようもないですが。ただテキストの言うように、こうした特徴は東京だけなのでは、とも思います。

うえむら ここはアーキテクチャの章なので、気質の話はそこまで掘り下げなくて良いのだけれど、楽しい話題ではあります。

しろくま 立小便もそうですが、単に人や車の多さの問題では、と思いました。田舎の人も別に人に見られたい訳ではないですよね。人が来ないからできるというだけの話。

こにし 同意見です。田舎の立ちションスポットは人通りが少なかったり、見通しがきかなかったりする道端の草むらですね。そういえば東京にはそういう「よくわからない場所」はあまりないですね。

しろくま 信号無視も、クルマがあまり来ないから実際に安全に渡れるということに加えて、人があんまりいないから悪いことをしていても、それを見られることがない、という要素はありそうです。だから他の人もみんな渡っていたら、気にせずに渡るのではないでしょうか。

名探偵コナンの千葉刑事が信号を赤で渡らないことを大事にしているという話があって、その理由は、一度無視してしまうと、それが習慣になってしまうからダメだ、という信念でした。誰に見られても恥ずかしくない行動をするという考えがあるのだろうなと思いました。

うえむら なるほど、自己規律しているのか。そうしなければどんどん易きに流れてしまう。

こにし しかし、そこは千葉刑事のBigbrother is watching you.の世界というよりは、最初におっしゃったNeighbor is watching you.の方が近い気がします。東京では隣人が見ている。衆人環視の状態に近いと思います。そして、隣人のことをよく知らないからこそ規律が効くのだろうなと思います。田舎で知り合いに見られているだけだったら、「あの人なら文句言わないだろう」と分かるので、信号無視しても許されると考えるのではないでしょうか。

◆規律・習慣・思想の苗床としての「家庭」

うえむら P207「使用人までもが同じ部屋の同じベッドに同衾することがよくある」というのはどこ情報よ?という気がしたけれど、もしそれが成立していたのだとしたら、前近代においては家族の生活時間が一致していたということでしょうね。労働の形態が家族労働だから、夜寝る時間も一緒だし、朝起きる時間も一緒だったことでこういう生活習慣が成立していたけれども、今や労働時間や生活時間は夫婦間ですら一致していないし、子どもとも違う。

こにし 時代の違いで言うと、ニュータウンとタワーマンションって違いますよね。高度成長期の象徴と平成の象徴。異なる性質のものを括っている気がします。重箱の隅ですが。

うえむら 確かに、昭和のニュータウンが徐々に脱臭していった近代性を、平成のタワマンがさらに現代化した。では次に、令和はどういう住まい方が文化を規定するのかな、と考えるのは面白そうですね。

こにし それは興味がありますね。

しろくま 確かに。人工的な建物から、むしろ公園を併設した自然回帰志向はあり得ますよね。

うえむら まあニュータウンも公園は併設しているけれど。

しろくま タワマンも1階に広場がありますよね。

うえむら タワマンはプールやジムなどが屋内化して、1階にはイオンが入っている。

しろくま または成城石井。確かに令和版はどうなるのでしょう。

こにし 「コミュニティ機能」みたいなものは平成後期からトレンドだなと思っています。タワーマンションでも共用施設を強化する傾向はあると思います。タワーマンションではなくても、郊外型のマンションではデカい公園を作って、同じ棟に住んでいる子ども同士が遊べるようにしたり、親と親の間のコミュニティもあったりするのでしょうね。その価値観に馴染まない個人主義の人も多いでしょうが、あまりにも隔絶された空間が、最近は緩和されて、コミュニティ回帰の動きが出てきている。

それにプラスして「毎日会社行く必要ないじゃん族」がどういう住まい方を望むかですね。別のカルチャーを作る気はしますね。それこそ「田舎の古民家を買い取ってDIYするやで族」が一定数出てくるのではないでしょうか。どれほどトレンドになるかは分かりませんが。個人的には田舎に隠居して「DIYするやで族」になりたいところです。

うえむら 私もそうかな。「空き家買い叩きたい族」です。

こにし 結局買い叩く感じになってしまいますね。東京側から見ると物価差があるので「買い叩いた」訳ではないのですが。

うえむら 恥じる必要はないですけどね。

しろくま どれくらいトレンドになるのでしょう。思ったよりもテレワークできる業種が少ないというか、ホワイトカラーの一部なので、自分たちの周りを見ると多い気がしますけれど、意外とテレワークできない人が多いですよね。かつ田舎に移ろうという気持ちを持つ必要がある。

こにし それはそう。まず母数が全然多くないと思います。しかもその中には、メインストリームのサラリーマンをやろうと思う人も多いでしょうから、東京ないしは東京に1時間以内に通勤できるエリアに居住しないと厳しいとなれば、そこまでトレンドになり得ないのかなとは思います。今は分岐点ですね。

◆戦後個人主義者としての「オタク」と「新人類」

うえむら 子ども部屋というアーキテクチャが個人主義者を生み出したという話をしていましたが、最近は「子ども部屋おじさん」という新たな括りが発生して、子ども部屋から出てこないおじさんが批判の対象になっている。しかし、子ども部屋おじさんはニート・引きこもりと違って自立していて、親に迷惑を掛けているわけではないし、後に社会問題に成っていく潜在層でもないのだから、「批判するなよ」という逆批判もされている。

しろくま 子ども部屋おじさんは実際には働いていないのですか?

うえむら いや、働いているのだけれど、結婚していなくて、実家に住んでいて、自分の部屋で趣味に生きている。それはP210の*16にありますけれど、消費個人主義に馴染みやすい子ども部屋という環境を与えられることで、子どもが消費者となる。そして子ども向けの商品がマーケットとして確立される。そのように、子ども部屋というアーキテクチャが、子ども部屋おじさんに繋がっていったということだと思います。

この点、しろくまさんのYouTubeチャンネルを観て、トドック(コープさっぽろ)が届けてくれた赤ちゃん製品の物量を目の当たりにして、子どもをターゲットとしたマーケットの大きさを視覚的に理解しました。

しろくま 子どもグッズを用意する中でそれは思います。育児製品ってこんなにあるんだと。これまでドラッグストアに行ってもあまり目に入っていませんでしたが、めちゃくちゃ売っています。それに西松屋や赤ちゃん本舗のような専門店まである。すごい製品量ですよ。

ちなみに「子ども部屋おじさん」と「書斎に引きこもるおじさん」とはまた違うのですか。書斎は自分で手に入れた感があって、子ども部屋おじさんは親から与えられた場所という違いはある気がします。

うえむら 結局、その「親から与えられている」という点に対する批判でしかないような気はしますよね。要は「結婚していない」ことへの批判。結婚しないという性質は、子ども部屋という城を持っているが故にさらに助長される。これもアーキテクチャの話ですね。子ども部屋が城として完成されすぎていて、出ていくインセンティブが全くなくなってしまっている

しろくま 書斎はもっと、働いて、自分たちでマイホームを建てて、夢を実現した、みたいなストーリーを想起しますものね。

うえむら 結婚によって城を手に入れるという感覚があったからこそ結婚のインセンティブが働いていたけれど、いまや結婚しなくても始めから城はそこにある。

しろくま 平成に育った人たちは「マイホーム生まれ」の人たちが多いでしょうね。

こにし 書斎については、結婚が大きいなと思いました。ぼくが一人で住んでいる部屋は、部屋自体が書斎のようなものになっている。しかし家の中で、壁に仕切られていないけれど、なんとなくここからここがリビングで、ここからここまでが仕事スペース、みたいな区分はありますが、明確に仕切られて書斎というスペースがある訳ではない。となると、見る人が見れば「子ども部屋」と同じなのだろうなと思いました。

ぼくは今のお話を聞いて、これまで「この部屋は自分で手に入れた場所だから書斎だし、人権は確保されている」と独りごちていたのですが、「あれ?確保されてない?」という気分になりました。「子ども部屋おじさん」の派生形でしかなかったのでは、と顧みてしまいました。

うえむら やっぱり結婚というもののポテンシャルを改めて感じたということですか。

こにし 実はそこの属性がかなりデカいのでは?と。

しろくま 自分で手に入れた部屋ではあるけれど、家賃も払って。

こにし でも「書斎」じゃねえな。

うえむら なるほど。「子ども部屋」と「書斎」の間にある越えられない壁を認識してしまった。

こにし 「書斎」持っている人への敗北感を胸に生きていきたいと思います。

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