見出し画像

7年ぶりの訪韓ドタバタ劇【20】京畿道大探検-迷彩の文山を歩く

 長々とやっている6月の訪韓記ですが、ようやく京畿道北部横断的な行程の最終区間と相成り…(前回投稿は↓)

 朝鮮戦争で「消えた」まち2か所を巡り、少し重い心をもったまま、次の行程へと移るべく積城の「いまの街」のバス道へ…

いまと昔を、つなぐバス道
この先の丘の右側辺りに、むかしの積城が…
もとは「新しい市場の広場」だった今の積城

昔の街、戦禍での破壊、そしてその因果となったこと。いろいろと思いを巡らせながら、うっすら夕陽色の中でバスを待つ。

 しかし韓国はすごいな…ここは一応は坡州市内だけど事実上は内陸の郡部、こんなところでも電気バスがもう普通に走ってる…

電気バスが何台も走ってゆきました

 おおお92番、現代エレクシティやないですか…今から乗るべきバスはこの92番か95番、充電座にありつけるかな…

なんかやってきた…
…え?

 やって来たのは「乗りたかった」95番…だけどなんでマウルバス用の小型車なのよ?もうマウルバスはじゅうぶんなのよ散々乗って振り回されゆさぶられてきたのよ…()

 …う~ん充電座も欲しいし92番を待つか…と一瞬迷いましたが92番は40分毎の運行、次がいつ来るかわからない。目の前のマウルバス色違いのニセ市内バスに乗るしかない!

 …このバスに30分揺さぶられ振り回されて、やってきたのは汶山(さんずいに文)のマチ。

 …いや、思ってたより「マチ」だわムンサン…

 鉄道も通っていて高規格道もあり、臨津江南岸の中でも栄える要素は大きいとはいえ、かなりガチな「街」だわ…と思って帰国してから昔の地図を見るこのたびの定番パターンで解析…

 1910年代の地形図だと上記のような状況。どうやら文山は臨津江の風/潮待ち港が支流の沿岸にありそこが一応の街となっていたようで(徒歩ベースの街道筋は文山浦ではなく河川の水量に影響されない内陸側を通り臨津里の渡場へと流れる)これが鉄道の敷設で「臨津江に架橋した唯一のルート」として安定した輸送路となり、臨津江上流からの水運でソウルや半島中南部への荷送り分が高浪浦での航路積み替えから文山での鉄路積み替えに移り、日本統治時代の後期にはそれなりの拠点性を得ていたという感じなのかなと1930年代の地形図を見てみると…

道が臨津里ではなく文山へ向かうように…

 調べてみたら日本統治終了からの南北分割での暫定統治を経ての朝鮮戦争、その戦禍を経て荒廃があるも再建されたのか1973年に邑(中核性のある市街地に付けられる呼称)に昇格とあり、北の手前の「最後の市街」そして前線を控えた補給地として色々と集積したという流れのようでここもまた「軍」が絡むマチと…

街のあちこちで迷彩服を見かけました…

 積城からの小さなバスを降りた場所はどうやら新市街的に拡がっていったエリアだったようで(バス停名が「旧文山ターミナル」だったのでバスターミナル前の市街だったのでしょうか)ヒトの流れに乗って歩いていった先が元からの汶山市街だというのを、この記事を書くうえで「いま知った」という…

昔からの市街の目ぬき通り

 お、なんか市場っぽいものがある…(それすら調べていなかった)

文山自由市場

 その場でkakao mapで確認、ふ~んアーケードも古びてないし中も碁盤目状っぽいし、なんとなく1970年代辺りに整備した新興市場なのかな…名前もそんな感じだし…と、そのときは思っていました。

 …私はまだ解っていなかったのです、京畿道北部のあれこれを…

1910年代の地形図にある汶山の様子

 汶山は王朝時代から臨津江・漢江舟運にかかる港町であり旧い地名はまさしく港を示す「汶山浦」で、ここに籍を登録する舟こそなけれど常時百石/二百石舟の出入があったと朝鮮総督府鉄道局「朝鮮鉄道駅勢一斑」(1914年刊)に記載があり、市場も王朝時代から続く5日市が盛況下で開催され続けていたとのこと。そして鉄道が開通すると臨津江に架橋した唯一のルートにつながる河川港として積替え拠点ともなったようで「大昔から賑わい市が立つ場」だったと。そしてこの自由市場はその王朝時代から続く市場が基になっているというのを、訪問から3か月経って知ることになる…

 文山の市場は王朝時代から徐々に市街に寄り駅に近づくような形で場所を変えながらも継続していて、5・10の日に開催の臨時市の場所に常設店が増えていく形で形成されたのがこの市場で、常設店が多数になったからか5日市の開催が1969年に廃止され常設市場として整備が進み、その後の南北緊張緩和を受け観光客呼び込みのため2015年に「自由市場」と名を変え若い世代のチャレンジショップやカフェなどの出店も受け入れ、商店の世代更新がうまく行きつつある好事例として紹介されるような市場になったということだそうで。そして一旦は消えた5日市も「やはりあの活気は必要」として復活に動き、1989年から開催日を4・9日に変え市場の西側でまた開かれるようになった、と…

この道が5日市での露店出店用空間と…

 今更ながら不勉強を反省、そして「知っていたら見え方・見る場所が違っていただろうに…」と思いつつ見返す画像フォルダ内の写真たち…

 夕暮れも近づいてきた19時過ぎ、何も知らない私はソウルに戻るため改めて「何も知らない」まま、歩いていたのです…

 歴史を、なりゆきを、知っていたらこれらの光景も「違って」見えたのでしょうか。色々と考え、初夏のあれこれを想う初秋なのでした。京畿道北部、再履修が必要かな…。いろいろと「知った」うえで、もういちど見て、触れてみたい。さて再履修はいつになるか…

(つづきは下記に)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?