見出し画像

地名は、語る。

中島、古沼、三ノ島。魚橋、塩市、高須に伊保崎。
どんなところだったか、よくわかる地名です。

さて私の住む高砂市は、旧くから「まち」だった高砂町と、周辺の農漁村ベースの町村が合併して出来た市で、旧加古郡(高砂町および荒井町の旧市街)が比較的「まち」で、その周辺や旧印南郡エリアは農漁村ベースとなっています。高砂町なんかは堀に囲まれた職能別居住区といった城下町のような町割りで、さすがは北前船の最後の大規模寄港地だったことを今に残します。

(高砂町の様子)

それに対し、旧印南郡エリアの地名は、最初に上げたような、どういう場所だったのかが如実に分かるものが大半です。例えば、高須。

山陽電鉄伊保駅周辺は、大きな括りで伊保崎という地名があり、恐らく加古川河口部の扇状地において岬のようになっていた場所なのでしょう。住吉神社がありますね。船や水運・漁業の神として祀られる典型的な神社であり、恐らく岬の先端は、ここだったのでしょうね。
そしてその先に高須という地名が。なるほど、岬の先に砂州があり、そのうち高くなっているところに漁民が住み着いたのでしょう。ここは今でも伊保漁港として盛業中です。

そしてそこに流れ込む法華山谷川ですが、地図中央、山陽電車との交点の辺りから地図右側(東方向)に、なにか不自然な街区割りが。

なるほど、昔は加古川の支流というか河口部の副流路みたいなものだったのですね。法華山谷川のことを地元では洗川(あらいがわ)と呼ぶのですが、これはこの加古川につながっていた川のことを指す名前だったようです。現在は廃川となり住宅地化されていますが、市役所の辺りには川があった時代の欄干などが残っていたりします。

その洗川と法華山谷川の合流部に、また住吉神社がありますね。ここも昔は漁業などでの船着き場があったりしたのでしょう。そしてその神社のある場所の地名は、今市。ちょうど海と川の接点であり内陸への玄関口となっていた場所が、あたらしく市の立つ場になっていたのでしょう。それより内陸には、中島という地名が。内陸から流れ来る法華山谷川と加古川河口部の扇状地の端が重なる場所で、その間で島のようになっていた場所なのでしょう。なるほど、川と川の間に、微妙なカーブを描く街区がありますね。

そして地図上部、法華山谷川と廃川らしき地の合流地点に塩市という地名が。
旧印南郡伊保村は、播磨灘の塩田地帯の東端。そしてここは緩やかな平野・丘陵を経て内陸部とを安定した交通路でつなぐルートへの玄関ともなっていたのでしょう。そして内陸から塩を求めてやって来る人たちへの塩の市が、立っていたんでしょうか。

もっと内陸へ行くと、こんな地名も。

漁村である伊保崎・高須から法華山谷川を遡ること約3キロ。小高い山にかかりはじめる場所で、川もそんなに水量豊富な訳でもない場所に、魚橋という地名があります。恐らく伊保の港から「生魚を運べる北限」として、ここに架かる橋のたもとで魚売りが立ったのではないでしょうか。冷蔵保存が出来ない時代、生魚は流通が困難なもの。それを入手できる場所として、広く認知され「魚橋」と名が付いたのかな、と。

さて伊保崎地区に戻り、具体的な地名にはなっていない「地区名」などを。

この図の中央部、地名では伊保崎で括られていますが、この辺りには別の地区名があります。小学校の班分けなどに残っていたのですが、その名は、古沼、そして三ノ島。要は伊保崎の地と曽根の町の間にある沼地で、その中に3つの小島が浮いていたのでしょう。山陽電車沿いに早くから開発された住宅地になっていますが、その昔は沼地というのがすぐに分かります。まあ、そういう経緯なので、地名には採用されなかったのでしょうけどね(苦笑)。ちなみに私が子供の頃は、山陽電車より南側、今の小学校がある場所はリアルに沼地でした…。

地名は、語る。近所を散歩するだけでも、視点を変えれば、ちょっとしたワクワクがあります。大昔、ここは、どんなところだったんだろう…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?