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京城の電車ゆめ語り -京城軌道- 1

 ソウルの街を縦横に駆け巡る地下鉄、郊外へひた走る電鉄。いまのソウル都市圏は世界トップレベルの電車ネットワークを誇る街。そんなソウルにも、昔、市内電車が走っていました。

最盛期のソウル市内・近郊電車路線図

 ソウル(いや当時は漢陽の時代ですね)の市内電車は、朝鮮王朝(大韓帝国)時代の1898年に王室とアメリカ資本との共同出資で設立された電気会社「韓美電気」によって企画され、翌年4月に西大門−鍾路−東大門−清凉里間で開業と、かなり早い段階で導入されていて日本の東京より先なんですよね。一説には王族が宮中から宗廟や東廟への参拝が度重なり役人が辟易しているという話を聞いたアメリカ資本が「商機あり」と踏み、王の墓参目的だが普段は市民に利用させれば運営維持費の負担どころか収益源になると半ばそそのかすような形で開業させ(なので開業時から貴賓車を用意していたそう)。当時の東大門~清凉里間は農村地域なのに電車が早々に開業したのも、この経緯からだとか…。

左列が一般用車両で上段が庶民専用の開放室車で下段が上流階級用区分室つき車両・
右側が王族専用の貴賓車の外観と内装の様子

 開業初期の頃は市民がまだ電車どころか西欧文化や大型機械などに慣れておらず、轢死事故などから暴動になることもあり混乱も多かったようですが逐次延長され、日本統治時代になると日本人居住エリアにも路線が敷かれ、上の図にあるネットワークがほぼ完成します。そして1930年には郊外私鉄線となる京城軌道が往十里~纛島(今の聖水洞)間で開業、その後数年で東大門や広壮(今のクァンナル)へ延伸し電車の運転も開始され、上図の全路線が出来上がります。江南エリアは市外の未開発な農山村だったので、当時の市街地は網羅されています。車両は小型なものが多かったようですが順次大型化され、こんな電車が京城の街を駆け回っていました。

1930年代に導入され最後まで活躍した日本製の300形電車
車内の様子
窓の上部のカーブが優美ですね

 そしてこの300形電車、近い形の「兄弟分」が東大門から漢江沿いの郊外へと走っていました。京城、そしてソウルで唯一の私鉄電車だった、京城軌道です。

ソウル写真アーカイブスより

 京城軌道は当初「軽便軌道(簡易な鉄道)」として敷設されましたが、後に電車を導入し順次成長、京城の郊外電車として定着していたそうです。市街側の起点となる東大門の駅には立派な駅ビルがあり、途中の龍頭や馬場辺りは近郊住宅地として開発され、終点の纛島は漢江水運の拠点となる地で対岸への渡し場も多くあり、漢江の河原は昔から水遊びの場で京城軌道会社が遊園地として整備し行楽輸送もやっていたそうな。そう、まるで日本の都市近郊私鉄と同じような存在だったのです。

1950年代の東大門駅空撮
東大門駅開業を報じる新聞(朝鮮新聞1934年12月26日刊)
週末の行楽を誘う新聞広告(朝鮮新聞1935年7月20日刊)
夏の行楽広告特集に出稿した纛島遊園地の様子(朝鮮新聞1935年7月25日刊)

 纛島遊園地は日本の宝塚新温泉・遊園のようにしかし京城軌道は、日本の私鉄のようには、なれませんでした。

東大門駅跡に建てられた記念碑

 夢を持った経営者、様々な思惑が交わる沿線開発、そして急速な都市の成長。これらの条件は日本の私鉄と変わらないもの。なぜ、京城軌道は、羽ばたけなかったのか。その「何故」と「もし」を、次回から探っていこうと思います。

遊覧客車を走らせ「夢いっぱい」だったはずなのに…

(次の記事は、コチラに。)
https://note.com/ktnh/n/n22cee80ce6a7

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