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墓石の村に、行った日。
韓国の各所にあったタルトンネ。
ソウルや仁川だけでなく、釜山にも、あります。と言いましょうか、釜山は市街地の多くが、いわゆるタルトンネに近い「まち」だったりします。いや、タルトンネより、先に出来ていたのかも。
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(朝鮮戦争休戦後の釜山の様子)
朝鮮戦争の際、韓国側は劣勢に立たされ、日に日に北側の軍に攻め込まれてゆきます。今の北側各地からの避難民(映画「国際市場で逢いましょう」の冒頭に出てきた興南撤収作戦などが有名ですね)、そして現韓国の各地も北の軍が及び、それから逃れるため多くの人が南へ、更に南へと避難してきました。半島南部の拠点港だった釜山の街は、避難先として真っ先に指向される地。多くの人と一言で言えないほどの人々が、釜山の街に、周りの野に、山に、押し寄せてきました。
その人たちが、どうにかして住む場所を…と、急な斜面を開拓し(とは名ばかりの勝手開発などですが)、なんとか棲めるようにしたのが、釜山の急傾斜地住宅の多くの起こりです。
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釜山と言えば…な「草梁イバグキル・168階段」も、そういう斜面の歴史を語る構造物ですね。近年モノレールが架設され、暮らしもラクになったでしょうけど、それまでは、この168段の階段が、生活を支える「基幹軸」だったのです。
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168段を登り切ったら、見晴らしの、良いことよ…。
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しかし、やはりここは「斜面のまち」、「階段のまち」。決して楽な暮らしがある訳では、ないのですね。
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そういった釜山の斜面にあるタルトンネというか避難民村、格好の「対象」となったのが旧日本人居住区、日本人用の施設でした。
ソウル近郊では龍山の解放村が有名ですが、1945年の日本敗戦による朝鮮からの撤退で、旧日本人居留区や日本人住宅は無主地・物件となっていました。そこは避難民が移り住むには「Better」な場であり、釜山でも旧日本人居留地や関連地に、避難民が流れ込んだそうです。
激化する朝鮮戦争、韓国側政府はソウルを捨て水原へ、そして更に南へと首都を移し、釜山は最後の砦として臨時首都が構えられる状況、避難民はどんどん釜山へ流入します。逼迫する住宅事情、山麓や斜面の開拓・占拠が進み、いよいよ、こんな場所にも手を付けざるを得なくなります。
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釜山広域市西区峨嵋洞。ここは昔、日本人居住区だった南浦エリアに付随する、墓地でした。
段々に整地された斜面、ふんだんに存在する石材、そして一応のアクセス路が確保された、まとまった土地。ある意味で、絶好の「開発適地」です。そこが「墓地」であることを、除けば。
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日本人からしたら「墓地を荒らすだけでなく墓石を転用するとは…」と嫌悪感を持つのは、ある意味仕方ないのかもしれません。しかし、当時そこは「無主の地」であり、そして当時「生きて行くのに必死」な人で溢れかえっていた。そして「弔いの形」は、全く異なっていた。
「生きて行くのに必死」な人たちが、この地を、碑石を、転用するのは致し方ないこと、いや、必然だったのでしょう。こうして、ここのマウルは、生まれたのでした。
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山の斜面そのままに、張り付くように出来た住宅街。
言われなければ、元は墓地だったということは、気付かないかも知れません。弔いの文化が異なる半島の人たちにとっては、墓地ということにも、当時それほど関心を寄せることもなかったのでしょう。
いま、ここは「ピソッマウル(碑石集落)」と呼ばれています。
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まるで観光地の「隠された宝探し」のように、マウルの名の由来になった、基礎や石垣に転用された碑石、いや日本人としては「墓石」がパネルで紹介されています。なんとも釈然としない感覚が心に溢れてくるのですが、ここは、韓国。文化が異なる地。彼等の解釈は、彼等なりの解釈。私が、私の母国の感覚でもってこれを解釈するのは、それもまた、違うのでしょう。
近いけど、似てるけど、別の国。別の文化。
この「モヤモヤ」も、また、別の文化に触れることによる「反応」なのでしょう。ならば、モヤモヤはモヤモヤとして、受け容れるしかない。
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短い滞在だったけど、いろいろと、考えた、時間。
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ここに棲んでいた、いや今も住んでいる人たちは、決して楽な暮らしをしてきた訳ではない。厳しい生活の中、苦渋の選択を以て、日本人の住居を、墓場を、「開拓」したのだろう…。
なお現地住民はこの地の「経緯」を承知していて慰霊祭も定期的に行っているそうです。
いろいろと思いを巡らせながら、墓石村の隙間を眺める。
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少女の目は、何を訴えかけてきているのだろう…
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