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安寧の死に向かう波

 今の居住地を選択する際、静かさや交通の便、買い物先やジムなどの近さに加えて、図書館やホールがアクセスしやすい場所にあると嬉しいという条件を控えめに挙げていた。結果的にそれは叶ったので、この休日も最寄りの図書館で本を読んだあとに、すぐ隣のホールへ向かって演奏会を堪能した。自分も昔吹いていたから、オーケストラを聞くとどうしても耳がファゴットの音を拾ってしまう。大好きなチャイコフスキーはもちろんのこと、生ではおそらく初めて聞いたマルケスも非常によかった。隣に座っていたご婦人の拍手の音がデカすぎて鼓膜が破裂するところだった。

 小説を一定書いていると、一度しっかり哲学を学んだほうがいいという気付きにどうしてもぶち当たるように思う。私レベルのしがない字書きでさえそう感じるのだから、これを商売にしている人達はさぞしっかり読んで、調べているのだろう。事実、私の好きな作家たちは自身の作品に哲学的要素を結構入れる。なんなら哲学者の作家もいる。

 他人に期待せずに生きてゆけたらどんなに楽だろうかと思う。同時に、自分のことだけを見つめる人生には味がないとも思う。この作品に感想をくださいと言っても実際手元に届くのはゼロ、良くてひとつ。アウトプットするにはインプットすることが大切と聞くけれど、何年も同じものを摂取して、何年も同じ話を繰り返しながらものを作り続けている人がいることも知っている。

 人は変化し続けるものだという認識があまりに乏しいと感じることがあり、それは往々にしてインターネット上の言論を見ているときに思うのだけれど、「この人は何年前に〇〇と言っていたのに今は全然違うことを言っている」とか「手のひら返し」のようなことを揚げ足取りに掲げて、他人を"論破"しようとする傾向があるみたいだ、ここでは。だが言うことなど変化して当然ではないか? 数十年前と全く同じことを延々言っていたらそれはそれで考えものではないか? 何かや誰かに触れて考え方や物の見方が変われば、主張もそりゃあもちろん変化する。私は変化をとても前向きに捉えているので、少し前と全然別のことを次々と言うような人にはむしろ好感が持てる。それだけ経験を受け入れ、自分の頭で考えて言語化しているということだ。

 しかし誰かの一貫した生き様に痺れる瞬間もある。自分のぶれないこだわりに失笑することもある。隣人や自分の変化と不変化をそれぞれありのまま受け入れて、尊重して生きていくことは簡単ではない。だから私はこんにちも人に期待しては失望して、自分に希望を見出してはどん底まで落ち込む。懲りずに。

 子どもの頃、大人の善は真っ当で正義に間違いはないと思い込んでいた。毎回空へ吹き飛ばされるバイキンマンのように、悪知恵や意地悪はいつかは間違いなく滅せられるのだと。真っ当な大人たちよ。そうではなかったと知りながらなお立ち上がれる原動力は一体何なのだ。子どもの笑顔か。憲法か。はたまた仲間か。私の場合は、今ここは過渡期のはずだと信じている心だ。

 先日、想定外のトリガーに突然直面して慌てて胸を押さえた夜があった。抑圧されてきたマイノリティの抵抗としての暴力は肯定されるべきという言論を偶然なのか最近よく読むので、それでもどうしてもそれを否定したくて縋るようにジュディス・バトラーを読む。私のような生い立ちの人間が、つまり、父の暴力に耐えかねて構えた包丁をそれでも踏み止まった子ども時代を過ごした大人が、全く暴力のない世界を望んで何が悪い。アンパンチは正直かっこよくない。なぜ自分が生きながらえてしまったのか今日もわからない。

・ 私の苦 あなたの苦しみ 明日の苦行 ここは過渡期 いずれは銀河

・ いつの日か私も荼毘て星になる生涯くべた涙の量だけ

suiu(加藤み子)

 私にとって死は安らぎである。いつかひとりきりで死ぬという安堵だけが私を私たらしめてくれる。死は私だけの領域で、孤独で、自由だ。シーツに四肢を投げ出して空調の音に耳を澄ませる。大ホールの三階席で聞く拍手の波のような静けさ。

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