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体育が大嫌いな子どもだったわたしが、15年後に21kmの障害物レースに挑戦した話

子どもの頃、いちばん嫌いな教科は?と聞かれたら、間髪いれずに「体育」と答えていたと思う。


どちらかというと、運動のできない子どもだった。
球技はすべからく苦手で、バレーボールでレシーブをすれば明後日の方向にボールが飛んでいき、サッカーでドリブルをすればボールにつまずいてよろめく。
ソフトボール投げは確か、ぎりぎり10メートル投げられたくらい。
短距離走の順位はだいたい下の上、良くても中の下。

唯一、クラスの皆より上手にできたのは水泳だった。
それもひとえに、小学1年生のプールの授業で、泳ぐどころか水を顔につけることさえままならない我が子を心配した母親が、スイミングスクールに入れてくれたおかげだ。

実家が田舎町の学区の端にあり、小中学校のときは家から片道3km弱を登下校のために毎日歩いていたので、おそらく体力がまったくないわけではない。
たぶん、いわゆる「運動神経が悪い」タイプだったのだと思う。

そんな調子で、体育に関してはびりっけつではないものの圧倒的に冴えない成績のまま、高校までなんとかやりすごした。
大学1年生の講義が終わり、もう強制的に運動をしなくてよくなったときは、本当にうれしかったのを覚えている。

それからというもの、運動という運動をほとんどしないまま、わたしは社会人になった。
外回りをする職種ではないため、一日の半分近くをデスク前でPCのモニターを眺めて過ごす生活。
さすがに不安を覚え、都内在住若手OLらしく、ヨガスタジオの体験コースなどに行ってみたこともあったけれど、契約さえすることなく日々が過ぎていった。
心からやりたいと思っていないのだから、今思えば当たり前の結果なのだけど。


転機が訪れたのはちょうど今から1年前、2019年6月のことだった。

大型シェアハウスに引っ越してから半年近く経ち、100人超の住人との共同生活にも慣れてきたわたしは、その日も共用ラウンジでだらだらと油を売っていた。

そこで唐突に、「スパルタンレースに出ないか?」と誘われたのだ。


スパルタンレースとは、重いものを持ったり、壁を越えたりというような様々な障害をクリアしながらコースを走る、アメリカ発の参加型障害物レースだ。
日本には2017年に初上陸し、以来全国各地で開催されている。


距離ごとにグレードが分かれており、現在日本で開催されたことがあるのは、Sprint (5km)、Super(10km)、Beast(21km)の3つ。
このとき誘われたのは、Sprintのレースだった。


最初は、「いや、わたしには無理です」って言ったと思う。

そのときには、スパルタンレースがどんなものか想像もついていなかった。
けれど、駅の階段の上り下りが一日の中で最も身体を動かす瞬間だった当時のわたしには、一番距離の短いレースさえ完走できるとは到底思えなかった。

誘ってくれた人によると、「アメリカのレースでは、ポテチをかじりながらソファで寝そべってテレビ観てるようなメタボ(カウチポテトというらしい)でも完走できた実績がある」という。
その話はにわかには信じられなかったけれど、熱く勧誘されるうちに「一度だけなら出てみてもいいかも」と気持ちが傾きはじめた。

なにがそうさせたのかは分からない。

その頃のわたしは、シェアハウスでの交流を通して、知らない世界にふれることに日々わくわくしていたせいもあるかもしれない。

一度きりのつもりで、わたしは7月に行われるスパルタンレースにエントリーした。


出場が決まるなり、さっそく一緒に出る人たちと一緒にトレーニングを始めることになった。
メインの練習は、近所のいくつかの公園を巡り、遊具でトレーニングをしながら、計5km弱を走るコース。

これが、本っ当にしんどかった。

終盤はとてもじゃないけどまともに走れず、吐きそうになりながらも歩いて必死でついていった。
家に帰り着いてからも、「ちゃんと食べないと身体が回復しないよ」と言われたものの、カットりんごを口にするのが精いっぱいというありさま。

トレーニング直後も相当つらかったが、さらに次の日は、階段を普通の姿勢で降りられないほどの筋肉痛に襲われた。

「こんなにできなくて本当に大丈夫なのだろうか」と、軽い気持ちで申し込んだことを後悔しつつも、もう後ろには引けない。
何度かトレーニングを重ね、まともに運動する服も持っていなかったわたしは、チームメンバーにウェアを買いそろえるのにも付き合ってもらい、1ヶ月後になんとか本番を迎えた。


このときの開催地は城下町で、お城のまわりがコースになっているシティ型レースだった。

観光地でもあるお城を横目に走るのは、なんだか贅沢な気分だ。

一緒に走った男性陣は非常に頼もしく、補助ができる障害物は十分すぎるほどに助けてもらい、障害物を1回失敗する度に課せられる罰則のバーピー30回も、分け合ってかなり回数を減らしてもらった。

そうして順調にコースを進み、4kmのプラカードが見えた頃には「あれ、もうあと1kmで終わりなのか」と思ったことを覚えている。
その後も特にトラブルはなく、無事に全員でゴールすることができた。


運動なんてここ数年一切してこなかったのに、ちゃんとレースを完走した。
やればできるじゃん。

そう思う一方で、なんとなく不完全燃焼であったことは否めない。

なんだか、終始おんぶにだっこだったな。
チームメンバーに助けてもらわなきゃ、ほとんど進めていなかっただろう。

「完走しました!」って胸張って言える気分じゃなかった。
もちろん1ヶ月前の自分に比べたら、大きな進歩であることには間違いないのだけど。


そんなすっきりしない気持ちと、とはいえ完走できた喜びが半々の状態で、わたしの初めてのスパルタンレースは終わった。
帰るやいなや、チームメンバーが次のレースの話をしていた。

日本で初めて開催されるBeast(21km)に出場しようとしているようで、わたしもまた出ないかと誘われた。

さすがに21kmは、次元が違う。
そもそもスパルタンレース自体、一度きりのつもりだったのだ。
最初は「今回の5kmとはわけが違いますって」と受け流していた。

そのとき、Sprintを走り切ったときの、100%喜べなかった瞬間を思い出した。

21km完走できたら、今度こそ自分を手放しでほめてあげられるんじゃないか。

そんな考えが脳内をかすめ、気づいたら促されるがまま、2ヶ月後に行われるBeastのレースにエントリーしていた。
(次の日、少しだけ後悔したことは内緒)


まったく未知の領域に挑戦する、そのプレッシャーからトレーニングには力が入った。

練習をはじめた頃は、いつものコースの終盤には吐きそうになっていたのに、いつの間にか平然と走り切れるようになった。
次の日の筋肉痛も、生活に支障をきたすレベルではなく、心地良いくらいの痛みに変わった。

開催地の特性を踏まえて関東近郊の山にトレイルランに行ったり、本格アスレチックのある公園へ行ったりすることもあった。
2週間に1回ほど、ボルダリングジムにも通った。
2リットルのペットボトルの水が6本入った段ボールを抱えて、近所のスーパーから帰るトレーニングなんていうのもやった。
この時期は、「しんどいけれど楽しい」体験を着実に積み重ねていたと思う。

5kmさえ無理だと思っていた2ヶ月前の自分は、もういなかった。


あっという間に2回目の本番が来た。

このときの開催地はスキー場だった。
早朝に新幹線で会場へ向かい、どきどきしつつもいまいち実感がわかないまま、出走までの時間を過ごしたのを覚えている。

ようやく自分たちの走り始める時間がやってきた。
でも、スタートした途端、目の前に立ちはだかる光景に一瞬言葉を失った。

急な山の斜面。しかも、視界にはその頂点は映っていない。
ふつうはリフトを使って上がるような場所を、自分の足で登らなければならないのだった。

熱中症になってしまったであろう参加者が、山を走る仕様のごつい救護車両に乗せられ、ふもとへ下っていくのと何度かすれ違ったときは、正直ぞっとした。

元気にゴールする自分の姿がイメージできない。

だけど、後悔しても遅い。既にレースは始まっている。
熱中症にだけはならないよう、こまめに水分を補給しながら、なるべく心を無にしてひたすらに上を目指した。

3kmほど続く斜面を越えた後に、ようやく障害物が現れる。
ここからが勝負、といいたいところだけど、登りがあまりにつらすぎて、障害物に取り組む時間が休憩のように感じられたほどだった。
もちろん、そんなに簡単なものではないのだけど。

その障害物ゾーンが終わっても、ひたすらに山の斜面の上り下りと、「もう無理」と思った頃に現れる障害物の繰り返し。
ところどころで助けてはもらったが、Sprintのときより明らかに成長はしている。
だけど、そんなことを考えて感慨に浸る気持ちの余裕もなく、「もう二度とスパルタンなんて出るもんか」と思いながら、無心で足を前に進めた。

折り返しを過ぎるあたりまでが、一番精神的につらかったと思う。
走っても走っても(正確には上りは走っていない。というか角度が急でほぼ走れない)なかなか現れない、進度を示すプラカード。
絶え間なく現れる斜面と障害物。
13kmを越えたあたりから、「あ、ゴールできるかもしれない」とようやく思えるようになった。

それからはほぼ気力だけで進み続け、ついにゴールのアーチが見えてきた。
朝の9時過ぎに出発したはずなのに、気づけば日が傾きかけていた。

Fire Jumpという最後の障害物をみんなでジャンプし、ゴールをくぐる。
(カメラマンが構えているフォトスポットなのだが、わたしは跳んだ直後バランスを崩してすべってこけた)
レースの最中に「もう無理、完走できない」と本気で何度も思った記憶がよみがえってきて、なんだか泣けてきた。


7時間19分。
一般参加者の中で、後ろから3分の1くらい。
そのうち女性だけでいえば、大体真ん中あたりの順位。

成績としては特に良いわけじゃない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
完走したことが最も重要であり、自分にとって何よりの成果だった。


この経験は、大きな自信につながったと思う。

20代半ばになって、物心ついた子どもの頃から抱いていた運動への苦手意識を克服できるだなんて、思ってもみなかった。
大学までの友達にこの話をすると、最初は百発百中で「信じられない」という反応をされる。
わたし自身がいちばん驚いているのだから無理はない。
できないと思っていたことって、案外自ら避けているだけなのかもしれない。

もちろん、タイミングや周りの環境の影響はかなり大きいと思う。
スパルタンに誘ってくれたシェアハウスの先輩、一緒に走ったチームメンバーの皆には本当に感謝している。


3月に行われる予定だった沖縄でのレースにも、新しいメンバーをまじえて出場する予定だったけれど、このご時世、数ヶ月先に延期になってしまった。
2020年はSprint、Super、Beastの三種目を制覇したいと思っていたけれど、レースの開催自体がどうなるかもいまいち不透明だ。
もどかしくはあるけれど、またレースに出場する日に備えて、身体を維持しておかなければ、と思う。
(自粛期間中、正直少したるんでしまっていたのは事実。またがんばろう)

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