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はなまるうどん わかめうどんの作法

はなまるうどんでわかめうどんを食べるのが好きだ。ほかにもきっといるだろうと思って検索したら、はなまるうどんのメニューで「わかめうどん」を注文する人いない説という記事を見てしまった。なんて恥ずかしい奴らなのだろう。ロケットニュースのグルメ記事の粒度が低いことはなんとなく知っていたが、彼らにはわかめうどんの良さは死ぬまで理解できないだろうと思う。ギークならギークらしくジャンクフードやエナジードリンクへの愛を語っていればいいのに、どうして他の食べ物を腐す方向にエネルギーを向けてしまうのだろうか。

まずはなまるうどんの何が素晴らしいかというと、麺のコシがふつうで、だしも普通であることだ。これがなぜ希少なのかというと、現代人は「情報量が多い」ことを善だと洗脳されているからである。とくに麺料理は「麺類総ラーメン化」とでもいうべき現象が進んでおり、そうめんを揚げ玉とごま油で食べるだとか、蕎麦をチャーシューとラー油で食べるだとか、とにかくジャンクフード化が進んでいる。うどんも例外ではない。ゴムのようにコシが強い讃岐うどん、食べるラー油、温玉、明太子……味覚と嗅覚と歯ごたえに信号が多ければ多いほどおいしいという洗脳を我々は受けている。

20代前半くらいまではそれをうまいうまいと食っていたが、……もう飽きてしまった。脂っこいものを食べられなくなるように、心がたくさんの情報を受け付けなくなってしまった。その分、食材の味がわかるようなシンプルな味付けがとても愛おしくなってきている。そんな私にとってはなまるうどんのわかめうどんは最高なのだ。すぐに噛み切れて具材と調和する麺。うまみの強すぎないだし。硬すぎず柔らかすぎないわかめ。以上。

ここで私なりのわかめうどんの食べ方をご紹介したい。

はなまるうどんはたいてい、天ぷらを選んでからうどんを注文する流れになっている。最初にうどんをコールする丸亀製麺などとは逆だ。これを読んだあなたは、もちろんわかめうどんを頼む。だからわかめうどんを最大限楽しむための天ぷらを選びたまえ。

天ぷらは自由に選べばいい。ただ覚えておいてほしいのは、つゆに決して浸さないということだ。後できちんと書くが、わかめうどんとはque será seráの美学であり、〈なりゆき〉を飲み干してそこになお残る坦懐のことである。天ぷらの衣から染みた油滴を飲みに来たのなら、おとなしく隣のラーメン屋に入ってほしい。仏門を叩いてまで五葷と生臭を食べる僧があるか。わかめうどんとは俗世との決別である。

今日はごぼう天を一つ。そしてわかめうどん(中)を注文した。会計を済ませ、トッピングを取る前に箸をもつ。そしてわかめをどんぶりの半分に寄せる。半分はわかめの大陸に覆われ、もう半分はつゆに沈んだうどんが見える、そういう形にする。はなまるうどんのわかめの量は容赦がない。トングで一掴み、もう一掴み、そして店員は首をかしげ、もう一掴み載せてくれる。不思議なもので、どの店舗でもこうやって仕上がる。マニュアルがあるのか、それとも善意がインストールされているだけなのか。

出来上がったどんぶりは、どこかラヴクラフト的な光景だ。地上は深緑の異形に支配され、透き通った海原には白い蛇がひしめき合っている。我はこの世界を新たなる秩序によって支配する神なり。まずわかめの大陸の一端に、すりごまを振る。別の一角にはおろししょうがを盛る。そして最後に、ごまの砂漠としょうがの湿地を侵さぬようにして、七味の火の粉を降らせる。どれも欲張って大量に盛ってはならない。枯山水やアクアリウムを作るように、あなたなりの調和を表現してみよう。ここで細心の注意を払うべきことは、すりごま、おろししょうが、七味がすべてつゆに溶けないようにすることだ。

天地創造、ここに完了せり。

神は天地を創りたもうたのち、安息の日をもうけた。テーブルにつき、この世界を食らう。ここでも大地を海に溶かしてはならない。原初の宇宙はすべてが灼熱の中で混ざり合っていた。そこには平等があった。だからといって、再び混ぜ返すことが平和を奪還する手段ではないのだ。

ごまをわかめで包んで食べ、麺をすする。七味をわかめで包んで食べ、麺をすする。溶けないように。ごぼう天をかじり、麺をすする。おろししょうがをわかめで包んで……アクシデントでしょうがが海に流れてしまった!それは仕方がない。それはこの星の〈なりゆき〉である。土や火山が海に流れ込み、曲がりくねった川が平野に侵入する。自然を人為的に破壊することは悪だが、それと同時に自然とは自ずと壊れ続けてきたものでもある。

大陸の異形と白い異形を新たなる神が食らいつくしたとき、そこには海原がある。そこには痕跡が溶けている。あなたの食べ方によって、しょうがが強かったり、七味が利いていたり、ごまが沈んでいたりする。しかしそれはいつものうどんのごとく意識的に溶かし込んだつゆのパンチよりも穏やかだろう。キャンパスを汚すだけの行為をアートとは呼ばない。これが私の調和なのだ。それを悠然と飲み、満足して店を出る。

振り返ると看板がある。食らいつくしたはずの大地に、もう一輪の花が咲いているではないか。

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