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中二病でも「連続体仮説」と「不完全性定理」を理解したい!①

やれやれ……君も”連続体”《コンティニューム》を知りたいというのかい?

【連続体仮説】
現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている
(連続体仮説 - Wikipedia)

いわゆる「中二病」にここまで優美に響く数学があっただろうか?「証明も反証もできない」という響きの無敵さ。ジョジョのスタンドならば確実にラスボス格。サラっと言えたらカッコいいよな!自作のラノベの能力者バトルに登場させたりしたいよな!

しかしその「連続体仮説」の内容は以下のようなものである。

ℵ_0<cardΩ<ℵなる集合Ωは存在しない

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ここで数学にちょっと詳しいくらいの中二病少年少女はその理解をあきらめるだろう。悔しいのでℵとΩの書き順だけは覚えるかもしれない。しかしこいつをざっくりと理解してやろうじゃないか、という話をこれから何回かに分けて書いていく。

そして中二病なら使いたくなってしまう数学用語の二大巨頭である「ゲーデルの不完全性定理」もなんとなく理解してしまおうじゃないか。

【ゲーデルの不完全性定理】
第1不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する
第2不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない

始原―”数ノ定義”《デフィニチオネム・ヌメリ》

我々は小学校で数というものを半ば強制的に習わされ、そこから分数や小数、そして円周率という無限に割り切れない訳の分からん数を叩き込まれ、中学校に入ったら負の数や√2などの存在を教師のいうがままに容認させられ、高校に入れば虚数や極限を習う。

しかしそれらが「存在すること」はどうやって担保されるのだろう?

リンゴが一個あることは簡単に分かる。それが半分であったり、1/3個あることも想像できる。自然数や分数は理解しやすく、たしかに観念的にも物理的にも存在するように思える。しかし「ごはんをπ合炊く」や「-101回目のプロポーズ」はありえない。それらの存在や、そうした数が無限に存在する事実は、じつはうやむやにされて学校で教え込まれてきたのだ。

体育教師は自分が跳び箱も逆上がりもできるから生徒に教えることができる。しかし数学教師は「π」も「すべての偶数」も「0」すらもその目で見たことがないのに、生徒にはそれを証明させるというのはなんともおこがましい話だとは思わないか?(僕は思いました)

現在の数学では、こうした「数」というものを、「集合」という概念を使ってうまく整備している。こうすることで「0と1って何なのか」「2と3はどちらが大きいのか」「πに限りなく近い数」などをようやく直感でない形式で定義できる(数を集合から定義する方法については、それ単体でかなりの時間を食ってしまうのでここでは割愛する)。

ちなみに大学に入った理系大学生がよく履修する授業に「集合・位相論」というものがあり、あまりの抽象度に8割の学生がゲロを吐くことになる

とにかく、集合というものは現代の数学の基本なのだ。

集合の禁忌に触れた者たち

しかし、肝心の「集合」の概念は19世紀くらいまで非常にふわふわとしたものだった。そうすると、数学者は性格が悪いので集合の「穴」のようなものを発見してはメチャクチャにし、これはイカンということできちんとした集合の「公理」があらためて整備されることになった。

ここで当時発見されたいくつかの矛盾を紹介する。どうでもいいけど「パラドックス」という言葉も中学生くらいの時に使いたくなったよね。

【ラッセルのパラドックス】
 自分自身を要素として含まない集合全体の集合は自分自身を含むか?

これは「床屋のパラドックス」とも呼ばれる。

「ある村でたった一人の床屋(男)は、自分で髭を剃らない人全員の髭を剃り、それ以外の人の髭は剃らない。では床屋の髭は誰が剃るのか?

というと、その矛盾が分かりやすいだろう。床屋が自分で髭を剃るなら、「自分で髭を剃らない人全員の髭を剃る」という定義に矛盾し、自分で髭を剃らないなら「それ以外の人(=自分で髭を剃る人)の髭は剃らない」から、自分自身が「自分で髭を剃る人」になってしまいまた矛盾してしまう。このパラドクスのキモは「よってこの床屋は存在しない」ではなく「永遠に矛盾し続けて存在を確定できない」ことにある。

こんなことがあっていいんですか数学さん!?ええ!?何とか言ってみろよ!

次。

『ユークリッド原論』より
 全体は部分より大きい

大昔のユークリッドさんが考えた集合の公理(=証明なしに正しいとして使ってもいいことがら)。たしかに松竹芸能(集合)とそこに所属するお笑いコンビ(部分集合)を考えると、部分集合のほうが大きいなんて言うことはありえない。うっかりそんなことを言ったらどうなることやら……

しかしこれは無限集合の登場によって誤りであることが判明する。

「自然数の集合:1,2,3,4……」というものが存在し、その部分集合として「偶数の集合:2,4,6,8……」というものが存在する。しかし、自然数の集合の要素一つ一つを取ってきて2倍してやれば、同じ個数の偶数ができてしまう。そうなると「自然数の集合の要素の個数」=「偶数の集合の要素の個数」となってしまい、上の公理と矛盾する

こんなことがあっていいんですか数学さん!?ええ!?何とか言ってみろよ!

「邪魔者は排除した。さあゲームを始めよう」

こういうことがあったので、数学では「ZFC公理系」というものが整備された。KFCはケンタッキーフライドチキンだが、ZFCは二人の数学者(ツェルメロ、レンケル)と選択公理(Axiom of Choice)の頭文字である。

まあ簡単に言うと、上に書いたようなおかしなことが起きないようなルールを考えたのである。これは現在でも数学の根幹をなすもので、僕らが習ってきた数学はすべてこれと矛盾しない。

邪魔なパラドックスは解消されて、矛盾なくのびのびと数学ができるぞ!となったのが19世紀末のこと。しかしここに立ちはだかったのが、かの「連続体仮説」なのだ!というところで、今回は終わりにしよう。

次回は連続体仮説を理解するために、数学の「濃度」という概念に触れる。

(続き→https://note.com/ktkusayama/n/nfd6295a7bb2a

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