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【ショートショート】走る男

町に来たその男は走っていた。走って町に来た。
町は港町だった。船が往来する穏やかな海を見渡せる山がちな地形に、木造の家々が密集し、生活道路は曲がりくねっていた。漁港には漁師と猫。狭い道路には散歩するお年寄りと猫。小学校と中学校が並んで一つずつ建っていた。

男は町の西側から走ってきた。
Tシャツに短パン姿で、スニーカー。アスリートというよりは、運動不足の解消にジョギングをするような格好だったが、その町の住民ではなかったし、隣町でもなかった。遠くから走って来たのだった。
あまり速いスピードでもなく、途中、お年寄りが声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちは」
男は愛想が良かった。笑顔で、足を止めはしないが、目を見て返事をした。
「がんばって」
「ありがとうございます」
「がんばるねえ」
「はい」
お辞儀をすると、汗がきらっと陽光を反射させた。

町の半ばまで来ると、もう夕方になっていた。
男が来た方向の山の向こうに太陽が傾き、影が伸びた。
学校からの帰り道、子どもたちもその男に声をかけた。
「なんで走ってるの」
「なんでかな」
「速いね」
「ずっと走ってるからね」
「僕の方が速いよ」
「おお、速いね」
子どもたちは男と並走した。次第に、子どもたちはどんどん増え、20人ほどの集団になった。細い道は行列を作り、広い道に出ると男を囲むようにして走った。海を右手に漁港を走ると、漁師たちも何事か、と追いかけた。

集団は大きくなり、足音がばらばらと町中に響いた。
夕食を作っていた主婦たちも出てきて、自分の子どもを探したが、見つかってもすぐに人の波に飲み込まれ、一緒に走らざるを得なくなった。菜箸を持ったまま走る人もいた。

足音は町の東端に差し掛かった。
みんなへとへとに疲れていたが、どうしても立ち止まる最初の一人にはなれなかった。自分が止まれば後ろの人がつっかえるし、最後尾の人はみんなに置いて行かれるのが怖かった。先頭集団は既にハイになっていた。

すると、前方の闇に白い水平線が浮かんだ。
機転を利かせた中学生がゴールテープを張ったのだった。
先頭の男の子が胸でテープを切り、すぐに立ち止まらず、少し走って、止まった。次々にゴールし、途中でどこがゴールラインかは分からなくなっていたが、みんな、立ち止まった。肩を上下させて息をし、その場に座り込んだ。
「はあ、疲れた」
「やっとゴールできた」
「なんで走ってたの」
「うちの子を追いかけて」
「あんた、なんで走ったの」
「あの人を追いかけてた」
「あれ、足が速い男の人は」
「僕の方が先にゴールしたし」
「あー、帰ってお風呂入りたい」
みんな各々、家に帰った。

結局あの男が誰だったのか、そんな男が本当にいたのか、もう分からないが、その港町ではその翌年から毎年、なんとなく町の端から端まで走る行事が定着し、走るのが苦手な人は途中から加わるとかして、なんとなく楽しんでいる。

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