【前に進み、後ろに戻る】5

「てか説教されてるんだからマスク外せよ」頭上から怒号を浴びせられ我に返った。目の前には履き古された黒いチノパンの膝がある。バイトに大幅に遅刻してワンオペで店を回していた先輩から怒られていた最中にもあの子のこと、というか正確には今後の自分のことを考えて現実逃避、というかむしろもっと深刻な現実と向き合っていたのだったが、それにしても説教中はマスクはNGなのか。そんなマナーがあるとは知らなかった。

新型ウイルスの感染が収束してしばらくたった今でもマスクを外さない人は少なくない。素顔の半分を見せないまま生活し、いざ必要ないと言われてもなかなかタイミングがつかめないもので、恥ずかしさを感じる人もいるという。俺はあのパンデミック前からもマスクを日常的に着けていたのでその人たちと一緒にされるのは少し嫌だったが、まあ別に誰も気にしていないのだろう。でももしも聞かれたら「いや俺は昔からマスク派でしたよ」と答えるつもりで準備はしていたのだが、まさかバイト先のネットカフェのレジ裏の床を温めながらその時がくるとは思っておらず、「てかお前なんでまだマスクしてんの。印象わりいよ」と舌打ち混じりに言われて「ああ、いや、へへ」みたいなことだけ言って、結局マスクを外すタイミングも失ってしまい、居心地は悪いし足はしびれるしで、またあの子と俺のこれからのこと(付き合ってるみたいな言い方だがあの子はもう死んでるし俺もそうなるんじゃないだろうか)にトリップする。

名前は「ハル」というらしい。名字は忘れたが、かの有名な人工知能と同じ音なのでニュースで知って妙に印象に残っている。ハル、君はなぜ死ななければならなかったのか。死にたかったの。生きたかったの。俺は今、めちゃくちゃ死にたいよ。最期に立ち合った身としては、せめてそれだけでも知りたい。知ってどうするということもないが。幽霊になって取り憑いてくれないか。幸い、俺は今フリーだよ。がちゃん、きいーとドアが開く音がした。どかどかと足音を鳴らして誰かが後ろに迫ってくる。俺は振り返ることができない。と、乱暴に仰向けに倒されて、背広の男たちに囲まれていた。え、まじで。やっぱりこうなるのかよ、親に連絡は、この部屋には戻ってこられるの、支払い遅れてるのとかばれちゃうのかな・・・

目が覚めると、まず鼻が冷たかった。背中も手先も冷え切っている。足は、ずっと正座したままでもう感覚がない。崩そうとしたら激痛がみぞおちまで響いて、なんとか靴を脱ぐと英語でいうフットの部分はぶくぶくに膨れているように思えた。あのまま寝ていたらしく、先輩がドアの向こうの厨房にいる気配がした。近くの壁にもたれて少し休み、また眠ってしまいそうになるのをなんとかこらえて、靴を履いて店を後にした。早く帰って布団で眠りたい。夜は明けかかっていて、カラスがぎゃっ、ぎゃっと控えめに鳴いていた。動き始めた街から逃げるように自転車のペダルを踏む足を無理矢理速く動かした。

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