僕的なnoteの理想像
noteをやっている人の数だけ
noteの使い方があってほしい、と
そう思います。
そして僕はnoteを始める際に
自分的なnoteの理想像を考えました。
1.表現の実験台である。
本を読んでいると、
きまって面白い文句の
ひとつやふたつが見つかります。
それを自分で使ってみたいと思う時、
僕はnoteを開くでしょう。
おかしな表現が多々あることと思います…
笑って見過ごしてくださいね。
2.改行と余白を尊重するものである。
村上春樹さんが著作のなかで、
音楽と文章には相通づるところがある、と
いう指摘があった気がします。
美しい音楽は美しくリズムを刻み、
美しい文章もまた、美しくリズムを刻む、と
なるほどと頷かされたのを覚えています。
音符はそれが本来あるべきところにおさまるべきで、文章についてもまた、本来あるべきところにあるべきだ、と僕は思います。
3.長文の投稿を促すものである。
僕はnoteの他にLINEや
Twitterを使用していますが、
そこでは長文は省かれる宿命に
あるように思います。
LINEはもはや生活手段の一部であるからして長文ではなく簡潔に内容を把握させることが目的になるでしょうし、
Twitterはもともとツイートの字数が140字以内に収まるように指定されています。
そういった仕組みが僕にはいささか
窮屈なように感じられました。
そんな中noteは基本的に字数について
寛容であるという印象を受けました。
ならばここではぜひ長文を、と思います。
ただその分内容が冗長にならないよう
努めようとも思っています。
とはいえ個人的記録ですから
気楽にやっていけばなぁ、という感じです。
この記事はここで終わりたいと思います。
読んでいただいたみなさま、
ありがとうございました。
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