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風景と写真に介在する「素景」についての考え

一度見入った街中のビル広告は、もののひと月もすれば別の広告に入れ替わる。新規開店したお店も、行ってみようかと思い至った頃にはもう看板が消え去っている。

当然、そうして街の部分々々は常に息づき変化を続ける。しかしそれはあくまで局所的な変化であり、その風景の根本である「素景」は変わらずそこに在り続ける。「素景」はその風景の歴史的総体としてその地に固定されるが故、いつなん時であれその場では同じ「素景」を目撃できる。

当然ながらその風景を一瞥した限りで「素景」を捉えることは不可能であり、度重なる風景の確認と歴史の俯瞰が欠かせない。
試しに自宅のある土地周辺を定点観察してみてほしい。何も難しいものではなく、日々その地の変化をぼんやりとでも眺めて見てほしい。その地が脈々と変遷を経る中尚もその地に息づく特有の空気は、「素景」によるとめどない脈動とその吐息によるものだと気が付くはずだ。その地を支える地層のようにして、「素景」はずっしりとその地に鎮座している。

渋谷を渋谷たらしめるのも、新宿を新宿たらしめるのも、銀座が銀座たらしめるのも、その地に息づくそれぞれの「素景」によるものだと考えられる。


※ 参考:「素形」(プロトフォーム)について

東西アスファルト事業協同組合講演会「建築にできること」内藤廣 氏


東京と福島にみる「素景」
東京と23区にみる「素景」

「素景」の目撃を図った時、視覚的経験の拡張媒体として写真にできることは、1つには、その風景の(変化の)連続を捉えることにある。微視的スケールで見る変化、またそこに関わる人を追い求めることで、その地の「素景」の断片を見出すことができるだろう。

そしてもう1つ。写真を用いることで、「素景」を私自身の記憶や感性と紐づけることができる。客観視点での機械処理的な捉え方のカメラだからこそ、その地その風景のイデアとでもいうべき「素景」があらわになるのだが、そこで生じる問題が『それでもなお「素景」はそれ自体で在り続けるのか』ということ。

記憶による「素景」
記憶と都市による「素景」
記憶と都市による「素景」

ストレートに描写した「素景」が真だというのなら、記憶や感性と混淆された「素景」はその時点で偽と化す。しかし、ストレートに描写する「素景」の写真はあまりに変哲のない風景写真だとも言えてしまう。

結果、この「素景」描写の最適解としては、他者視点を以て捉えること、つまり、「素景」の第二人称表現に至る。否応なしに他者(撮影者)の意図や記憶や感性が侵入した形でしか、「素景」は形を持つことができない。そうした避けようのないノイズを孕んだ「素景」のかたちは、ある人にとっては特有の印画紙に焼き付けることが必須だったり、またある人にとってはPhotoshopでの複雑なレタッチが求められたりする。そして私にとっては、多重露光による「素景」と「素景」が混じり合う手法で、その「素景」は私の視点を介したかたちを得ていく。

風景と「素景」に関する考察
他者記憶と「素景」に関する考察
自己身体と「素景」に関する考察


以上、『風景と写真に介在する「素景」についての考え』より。

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