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「写真」と「裸」を見つめると

スナップ写真ばかり撮っていたのは、ちょうど去年の今頃になるかと思う。

ライターとして独立することを目指していた最中、『執筆の時のイメージ画像も自分で撮れたら、「書けて撮れるライター」なんて売り出し方もできる!』
ちょうど業務委託でびったびたにお世話になっていた企業さんとの契約も〆どきだった。そんな軽い気持ちから、身を寄せているシェアハウスの片隅にあった一眼レフを手に、昼夜問わず都内のあちこちを撮り始めるようになった。

気がづけば今は、撮影スタジオで働き始め1年が経とうとしている。
多忙な毎日で忘れ去ってしまっていたけれど、ライター業務、その他かつて熱を入れていたSNS運用やデジタルマーケティング、Z世代リサーチなんかには目もくれなくなっていたんだった。
いつくるか分からない休日をジリジリと待ち侘び、飛び掛かるようにして朝からセルフポートレートとヌードを撮る。1年前とは打って変わって、かなり異なる対象に関心を持つようになった。

写真というもの、それ自体に対する考えも変わったと思う。
当時は、ショートムービーやGIF、静止画、文章などと並列されていて、なんらかの伝えたいことを孕んだ「売り出すことを目的としたコンテンツ」くらいにしか考えていなかった。ところが今や、「写真」と頭の中で思い浮かべるだけで、深長な価値と豊かな想像が脳内に広がり、一度どこかでストップしていた写真についての考えが、堰き止められていたダムが溢れ出すように考えが湧き出る始末になった。

セルフポートレートを含むヌード写真を撮るのは、まだ10回ばかりの経験だと思う。
それだからこそ、未だまだ褪せない新鮮さに、心うわの空、な状態だけなのかもしれない。あながち、間違えでもないかもしれない。が、そこには、回を重ねても飽き得ない、自慰行為にみるある種の中毒性のような、止めようにも片足鼻先伸ばして『やってみたい、見てやりたい』という気にさせる魅力がある。

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先週ヌードモデルになってもらった彼とは、撮影前夜に会ったばかりだった。
2カットを想定してライトを構えたけれど、最初のカットの時点から気が付くと彼の上半身はあけっぴらになっていた。『ちょっとライティング変えるので待っててください』と言った矢先、また振り返ると全裸で何やらストレッチを始めている。

"そもそも服着る意味が分からない、みたいな"

前夜、知人の制作事務所に立ち寄っていた。
そこで働いていた彼と話をして翌日のヌード撮影に至ったのだけれど、会話の中、そんなことを話していたのが思い出された。


撮影をする。
そうと決まれば、スタジオ、ライティング、構図、メイク、コーディネートなんかが順々に頭を巡ることになる、はず、だろう。けれども、先ずもってなぜ撮る場所さえ決まっているのに、被写体にあれこれ”よそおい;装い/粧い”を施す必要があるんだろうか。広告宣伝(ビジネス)または記録すること(ジャーナリズム)が本望でない場合、こと写真において残された意味とは、被写体を介した何らかの表現のみとなる。となれば、無闇に”よそおい”を施し彼当人の本質を覆い隠して、一体何の得があるというんだろう。

彼の言葉を思い出して、そんなふうに想いが巡った。

もちろん、”よそおい”を施せばそれだけの価値と意味を写真に投影することができる。
裸のポートレートとスーツ姿のそれとでは印象が異なるのは想像に難くはない。その例えで言うなら、「公と私」や「進と退」、「現実と理想」など明らかな対義描写が相応する。
この相反する要素に善し悪しはもちろんないという前提だけれども、「私」や「退」、「現実」というその被写体が元来備える端的な印象が最大限に引き出されるように思う。これこそが、“よそおい”を排したヌードにしかない表現、価値だと思う。

俳優としての一面を持つ彼からは、”よそおい”を加えた場合とそうでない場合の結果が歴然としていた。ヌードでダンスをしてもらうカットで、その差異が明白に現れる。

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身体の筋肉一つ一つが具な動作を見せて、それが眼前で一寸たりとも隠されることなく繰り広げられている。どこかセックスをしているような感覚だった。『写真論』の中でスーザン・ソンタグは、勃起した男根にカメラのレンズを喩えて、被写体を侵蝕し貪る道具という考えを呈していて、読んだ当初は嫌だだったそのことが、悲しいことなのかもしれないけれども今は少し分かるような気もする。


写真はまだ、生まれて200年ほどの歴史しか持たないそう。
彫刻や絵画のセルフポートレートについていえば、それはもう大層古くから存在するそうで。それは単に、モデルを必要としないうえ、自分という自由気ままに要求を通せるモデルが眼前(?)にあるからで、誰にでも容易に思い付くはず。

ただ、殊ヌードのセルフポートレートというと、写真の大先輩に当たる絵画にもそう多くはないそうだ。大抵がパレットや筆を持ったセルフポートレートで、他には群像の中に自身を紛れ込ますという描かれ方をしているという。
この現代でヌードのセルフポートレート作品をつくり続けるアーティストを調べ、真っ先にヒットしたのは Polly Penrose(ポリー・ペンローズ)とSharol Xiao(シャロル・シャオ)だった。両者ともに女性のヌードセルフポートアーティストで、NEUTHEAPSでの2人は、いずれも裸体こそが人間元来の自然さであり、『そもそも服着る意味あるの?』という至極シンプルな考え方が根幹にあるように窺えた。そしてこれまた共通していたのが、自己表現や意思表示などといった凝り固まった考え方はなく、ただそれが気持ち良いからやっている、というものだった。

写真・執筆・講演など多方面で活躍する長島有里枝さんのインタビュー記事での一言が、頭の中、ここでリンクした。

"若い人にはまず自分がいいと思うもの、好きなことを大事にして欲しい。それが見つからないなら、やりたくないことをやらないようにするだけで、結構楽しく生きていける気がします。”

ここまで、カメラのレンズと男根がどうとか、セルフポートレートとは自己との対話だとか、大層な持論を書いてきたわけだけれども、結局はヌードセルフポートレートの根源にあるのは、子どもが永遠と一つのおもちゃで遊び続けているように、「したいからやってる」というごくごく単純な好奇心から来ているだけなのかもしれない。

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それも一つの考えなのかもしれないが、ヌードセルフポートレートを行う人がいる以上、その楽しさに惹かれる人は一定数いるのだということ。そして、それを行う人の性質(性別, ジェンダー, 国籍, 出自etc)が異なる以上、鑑賞者からすれば無限の価値が生まれる可能性を孕むということ。
殊自分のケースでは、スタジオでのヌード撮影が主であり、これはポリー・ペンローズともシャロル・シャオとも長島有里枝さんとも異なる点だ。カジュアルなロケーションでなく、スタジオと照明機材を用いた原色と明暗に基づく写真。ここでも、極めて小さいヌードセルフポートレートというパイの中でさらなる細分化が起こっている。

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私の撮る写真には、その御三方にはない点が既に備わっている。
その価値を、自分自身で続けていく中見出すのか、方やコンテストの審査員が見出すのか、諦めて別の方向へ行ってしまうのか、こればかりは神のみぞ知るといったところか。

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