背景のある写真についての誰何
考え込まなくなった時に限って、ようやく答えは、残酷な形で現れてくれるんだとまたこの時も思わされた。
スナップ、ポートレート、記念、広告、報道。
これらの言葉の後ろには、違和感なく”写真”という語が据え置かれる。それぞれの写真行為には、成すに当たってめいめいの場合全くもって異なる目的と心境が(個々人に応じてでさえ)あるのは想像に難くない。
例えば、一般に、家族との「記念”写真”」は家族との愛を嬉しむべく行われるものだ。
その時にあなたが思春期の真っ只中にいたのなら、めんどくさがるかもしれないし、結婚し相手方と一緒ならちょっとこそばゆくって誇らしい心地になるだろう。
「報道”写真”」はその言葉通り報道の要で撮られるもので、撮るに当たっては事前情報の把握から出来事の背景からロケーションの確保から実に多分に時間を使ったその上で、誌面を飾る一瞬を切り取る。その時には、もう無心でファインダーから見える風景に全身全霊を懸けることだろう。
私がこの1年捉えようとした写真は2つあった。一つは「セルフポートレート"写真"」、もう一つが「報道"写真"」だった。
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私の勤める撮影スタジオによくよく訪れるカメラマンのY氏に、ここ最近よくアサインされる。かっこよく"アサイン"と言ったものの、わずか勤続1年のスタジオマンに過ぎない自分はとくべつ指名を受けている訳でもないのでシフトの都合上Y氏のところに落ち着いているだけなのだけれど。
その日Y氏が撮ったタレントは誰もが知る国民的俳優だったわけだが、コンプラ的にここでもアルファベットでH氏と記すことをお許しいただきたい。
さて、撮影の合間、某国民的俳優のH氏はカメラマンY氏にこう話しかけた。『いまウクライナで起きていることとか、そういう世界的に重要な出来事を写真に収めようとは思わないんですか?』
… なかなかに突拍子もない語り掛けで、制作部やレタッチャーと写真を吟味していたY氏はやや驚きを隠せない様子だったも、落ち着いた物腰でゆっくり答えた。そしてその返答は極めて端的だった。
『撮る意味がわからんので、やりませんね。』
「は?」とも「ファッ!?」とも言わしめるものだった。とにかく衝撃的で、私の積み重ねてきた思考、将来夢見ている姿を実現させるための思想を根本から瓦解させる破壊力を持つものだった。年末でY氏との今年最後の案件だったというタイミングもあり、むしろその破壊の意志すら孕んでいるのではと疑いたくなった。
先に記した通りに、私は背景のある写真を求めている。
曲がりなりにもその思想を高めてきた身からして(このような考えは到底Y氏の前では語れないが)、広告写真ほど背景の濃度が薄くテクニック一辺倒な写真はないと考えている。
1年間東京の巨大スタジオに勤めたからこそ、そう判断できる。出来上がる写真それ自体についていえば、もちろんクライアントとプロデューサーとの絶え間ないディスカッションや制作部による実にさまざまな部門員に対する渉外など、膨大な背景があることだろう。また、そこに携わる人々は(おそらく)どこの業界を見回してもそうないくらい馬車馬の如く働き回っている。
したいこともたくさんあるだろうし、自由な時間もたらほど欲しいことだろう。始発と終電で現場を行ったり来たりするような日々の背後には、きっとそんな思いもあるはずだ。
話が逸れてしまったが、カメラマンY氏の一言はやはり破壊的であった。
そう思うのも、ついぞ先日写真を撮ってほしいと頼まれた友人から『お前は”背景のある写真”が好きなんだな』と言われたからであった。フォトジャーナリズムの範疇にある写真には、背景、つまりはその光景が眼前に現れるに至った経緯がある。人類が知り学ぶべきエレメントが詰まっているのだ。歴史・情緒・風俗・文化… これこそが、私の考える”背景のある写真”なのだが、どうもY氏にとっては『撮る意味が分からん』ようだったのだ。
もういい、はっきり言うぞ、おれだって広告写真撮る意味分からんわ!
カメラに携わる友人にもこの話をしてみたところ、みなみなが別段落ち着いた調子だったのできょとんとしてしまったのだった。
興味深い考えを示してくれた者もあった。彼は「(ウクライナとロシアの問題などジャーナリズムに関することは)気軽に踏み込んでいい領域ではないから、Y氏は自分のできる範囲の中で理由のある写真(=広告写真)を撮ろうとしているんじゃないのか」そして続けて、「それが単に、お前とY氏とで認識の差があったに過ぎない」そう話してくれた者がいた。
これはつまり、Y氏のジャーナリズムを神格視する姿勢なのではないかとも思えてならなかった。あまりにも複雑な問題であるからこそ、気軽に踏み込められない、というように。
そうとなれば、私の考えるフォトジャーナリズムの深度はまだまだ取るにも足りず、知的好奇心が芽を出した程度でことの重大さを全くわきまえていないように写る。そしてそれは、事実だと首肯せざるを得ない。
未熟さを残した聞き耳が祟ったのか、Y氏のそれは破壊的衝撃を伴っていた。私はそれをまこと正直に捉えたし、また他の誰かからの意見も参考にした上で真意を判断した。それだけ、私の解釈したY氏の言葉の意に誤りはないと思うし、それにより思い至った私のフォトジャーナリズムへの浅はかな考え方も浮き彫りになった。
これが事実なのであり、これが2022年最後の衝撃だった。
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