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東大生がトップレベルの実業団チームに飛び込んだ話

「はじめまして。GMOアスリーツ監督の花田勝彦です。」

こう始まるメールが、大学3年の箱根予選会が終わった後、自分のもとに届いた。箱根予選会が2017年10月14日、メールが届いたのが10月16日だった。

花田監督の選手時代や上武大学監督時代の実績は知っていたし、自分の中では「テレビに出ているような有名人」だったので、そんな人からメールが届いたのは不思議な感覚だった。多くの場合、まずは実業団の監督と大学の監督との間でコンタクトが取られるので、直接連絡を頂くというのは普通ない話だろう。

GMOアスリーツ(以下、GMOとする)は創設されて2年目を迎えていた。青山学院大学の3名と上武大学の3名でスタートし、この年には青学から一色さんが加入、翌年には青学から下田が加入する予定だった。

若いチームでニューイヤー駅伝への出場こそなかったが、当時大学駅伝で無双していた青学のエースクラスを連続で引き抜いているということで、これからトップチームになっていく期待感があった。練習環境や待遇について詳しく知らなかったが、引く手数多の選手がわざわざ来ているということは、それ相応に整ったチームなんだな、と推測していた。

自分の大学3年時の5000mと10000mの自己記録はそれぞれ14’03と29’16だった。実業団に行く選手としては、当時では中堅レベルだろうか。記録水準の上がった今では、そもそも実業団に行けるかどうかのレベルだと思う。

強みと言えば、初マラソンの大学2年の東京マラソンで2時間14分13秒をマークしていたことと、箱根予選会の20kmで59分54秒で個人20位(日本人14位)に入ったことだと思う。実際、将来的にフルマラソンで2時間10分切りを目指せると思ったのが勧誘のポイントだったらしい。

それにしても、GMOに加入する選手のレベルを考えると、当時の実力よりかなり評価してもらっていた。GMOは上から下まで誰かれ声をかけるというよりかは、少数精鋭のチームだ。そういうチームだという認識は当時からあったので、多くの選手の中から選ばれて声をかけてもらったのは非常に嬉しいことだった。

いくつかメールでのやりとりを経て、11月に花田監督と直接会った。まず池袋のカフェで軽く話し、その後焼肉をご馳走になった。東大陸上部の長距離パートではブログで練習を公開しているが、それを読んでいると聞いた。練習の考え方や方針から、GMOでもやっていけると思ったらしい実際、東大とGMOの練習の流れはほぼ同じである。どちらも基本的にインターバル、ペース走、距離走orロングジョグを1週間の間にこなしていくオーソドックスなスタイルである。

監督が自分の書いたブログを見ていなかったら、ここまで興味を持ってもらえることはなかっただろう。いくらか発信をしていて良かったと感じる。今もnoteを書いているが、ライターの方が取材前に読んできてくださっていることはよくあるので非常にありがたい。

そして12月には花田監督と安田副社長(GMOアスリーツの部長でもある)が東大に練習を見にきてくださり、その後食事に行った。東大の駒場キャンパスとGMOのオフィスであるセルリアンタワーが近かったこともあり、そこで食事を摂った。たしか、ステーキ丼みたいなものを食べた。

そこでは具体的な進路の話になった。当時の自分の学科は95%は大学院に進学するような学科であり、就活の準備もしていなかったので、何事もなければ大学院に進学するつもりでいた。そういうわけで、実業団と大学院のどちらにしようかで考えていた。正確に言うと、真剣に天秤にかけていたわけではなく「確率的に実業団か大学院のどちらかにはなるだろうな」という程度だった。幸い、大学院入試は大学4年の夏なので猶予はあった。だからその段階ではどちらかに決め打ちしようとは考えていなかった。

実業団か大学院かで進路を考えていることを伝えると、安田副社長から「ウチで競技をやりながら大学院に行くこともできるんじゃないか」という思いもよらぬ提案をして頂いた。会社の副社長クラスの人が陸上部に関わってくださっているのは、この時から本当に頼もしいと感じた。

一般の大学院生として実業団で競技をする人は、少なくとも長距離選手では聞いたことがなかった。前例のないことにチャレンジできることを想像して、胸が昂ったのをよく覚えている。しかし箱根駅伝を翌月に控えていたこともあり、当面決断を保留することにした。

しかし残念なことに、箱根駅伝直前にインフルエンザを発症し、出場はかなわなかった。悔しさを晴らす場所が欲しかったので、病み上がりでコンディションが整わない中ではあったが、2月末の東京マラソンに向けてトレーニングを積んでいった。

東京マラソンでは1km3分ペースの集団についていった。たしか15km地点で一色さんにスペシャルドリンクを分けてもらったが、初めてモルテンを口にしたので「なんだこれは?!」となったのを覚えている。

中間点手前で余裕がなくなり集団からは完全に離されてしまった。25kmまではなんとかレースの体を保っていたが、そこからはジョグのようになり、30km地点で棄権した。

収容バスの中で、この東京マラソンが歴史的なレースとなったことを知った。設楽悠太選手の日本記録をはじめ、日本人サブテンが9人と記録ラッシュのレースとなった。スペシャルドリンクを分けてくれた一色さんもサブテンを達成していた。

“プロ”と”アマチュア”というくくりで分けるとしたら、当時の自分はアマチュアであった。この東京マラソンはプロとの間に絶対的な差を感じさせるものだった。

自分はこれまでずっと一匹狼で競技をしてきた。高校も大学も、入学したら即エース。チーム内で競り合う経験はないに等しかった。

東大なのに足が速い。その希少性ゆえにもてはやされることも多かった。そもそも高校時代、純粋な走力でトップを目指すのは難しいと悟り、オンリーワンになるために東大を目指したのだ。得るべくして得た希少性である。

大学院生、もしくは市民ランナーとして競技を続けることが、これまでのスタイルの延長線上だろう。それまで毎年自己記録を更新してきたように、自分なりに強くなっていくビジョンはあった。

しかし、その延長線上に日本トップレベルの争いに参加できるビジョンはなかった。中間点過ぎに遠ざかっていった背中たちに混ざり、さらに30km過ぎで叩き合っている自分の姿はどうしても想像できなかった。

その背中たちに追いつくにはどうすればよいか?自問自答した結果、静かに、でも確実に、気持ちは固まっていった。

5月頭の記録会のレース前に、GMOに入ることで監督と合意した。他に誰が入るかや具体的な待遇は、入ることを決めた後に聞いた(別に隠されてたわけではなく、あまり関心がなかっただけ)。森田と林が入るなら全体として力不足にはならないだろうという安心はあった。

大学院に行くにしても、どうせなら陸上に振り切れた方がいいだろうと思い、運動生理学を扱う学科を受験することにした。7月に筆記試験と面接を経て8月に合格が決まった。GMO側では大学院進学は既定路線だったと思うが、普通に点数が足りなければ落ちる試験なので、面目を保てて安心した。

結局は、言語化できない心の底から湧き上がってきたものに従った結果今の進路を選んだ。だからといって、色々なことを天秤にかけ出したら実業団という世界には飛び込めなかっただろう。自分の選択に後悔はない。本当に大切な決断をする時には、外からの情報にとらわれすぎず、心の底から湧き上がってくるものに素直に従う、というのも大切な気がする。

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