戦争で戦うことについて - 義勇兵報道で思うこと

ウクライナの戦争は、すでに3週間続いている。日本を含めた世界では、ウクライナの戦争が大きく報じられている一方で、それ以外の各地で続いている戦争についてはほとんど報じられることもない。そういうことはまた別の機会に考えたいが、今回はウクライナでも報じられるようになってきた、義勇兵の問題を少し考えてみたい。

義勇兵といってもいくつかのパターンに分けられると思うが、今回のウクライナのように、当事者側政府が積極的に受け入れているケースがひとつ。この場合は、現地での武器弾薬や寝食に関しては与えられる。金銭的な報酬があるのかどうか(表向きはそのように謳っていても)は、また実際に支払われているかどうかは定かではない。これは、まったくのボランティアのケースもある。

この場合は、純粋に当事者の一方に対する熱烈な支持の思いがあり、そのために戦場に行って戦うという場合と、高額な金銭報酬が目当ての場合とがあるだろう。ウクライナの場合、このどちらもが当てはまるケースと考えられる。

また、ロシア側も義勇兵を募集しているが、こちらもシリア人らを主なターゲットに、高額な報酬を約束して募集しているようだ。ただ、ロシアの場合には、報酬の支払いをエサにしてはいるが、支払われるケースはまずないと考えて良いだろう。過去の戦争(たとえば、チェチェンやナゴルノ・カラバフ、アブハジア等の戦争でも)でもそうだった。また、実際には支払いを受ける以前に、義勇兵たちの多くが戦死しているケースが多い。彼らは、間違いなく最前線に送られるので、ほぼ捨て駒であるのは間違いない。

別のケースでは、フランス外人部隊のように、ある政府が正式な部隊を持ち、そこの兵士として採用するケースもある。この場合は、衣食住が支給され、戦死すれば見舞金も支払われる。ただ、これもフランス人よりもリスクの高い前線に送られるケースが多いので、割の良い仕事といえるのかどうかは、志願する人のそれぞれの事情にもよるだろう。

いずれにしても、義勇兵というと少し聞こえは良いのだが、ようするに傭兵であり、金の為に人を殺すのが仕事である。もっといえば、人を殺すのが職業であるともいえる。そう考えると、どんな崇高な理由をつけようとも誇れるような仕事ではないと言える。

別のケースとしては、イスラーム圏ではそれなりに一般的であるが、信仰に基づいて戦うというケース。報道などでは、ムジャヒディーンなどと呼ばれている。イスラーム圏では、ジハード(聖戦)という。ただこれも、結局は仕事は人殺しであり、神の名による使命だと言ってはいるが、人を殺すことには変わりはない。また戦場で彼らが行っていることには、少なからず信仰を汚すような事も多々あることを忘れてはならない。

義勇兵に関してはわたし自身が戦場で直接会ったことがある事例も少なからずあるので、そういう知見に基づいた考えでもあるが、多くの場合それは戦争をより複雑化し、殺戮をより残虐にする傾向にあると思う。とくに本来自分が生まれ育った地ではないうえに、信仰なり愛国心なり、あるいは金銭欲に取り憑かれているうえに、戦争が終わればその地を去るケースが多いことも、残虐性に拍車をかけていると感じる。また戦争というのは、人間の一生でも希有に経験する非日常であり、通常の暮らしの中では法や慣習などに阻まれて出来ないことが、ほぼフリーハンドで許される(あるいは黙認される)状態だ。だから、不必要な殺人、破壊、暴行(とくに女性や弱者に対する)が繰り広げられる。

ウクライナには、数は少ないが日本人の義勇兵も入っていると 伝えられている。彼らは、外国のカメラの前では正義や人道を口にしていたし、その目つきも毅然とし、英語もしっかりと話していた。が、だからといって彼らの行動が正しいのかどうか、伝わる情報が現段階では少なすぎることもあり、そこははっきりしない。もし後方支援に徹し、人道支援を行うのであれば、それは評価されるべき行動だといえる。

 しかし、もし前線に行き、ロシア軍兵士を殺害するようなことがあれば、その行動は議論されるべきものだ。

戦争に殺人はつきものである。それは当然だ。また、戦争を無くすことも実際には困難であり、だからこそ人類の歴史の中で、戦争が無かった時代というのは、ほぼ皆無なのである。

戦争で人を殺す、という行動は、当事者には許されることだと思う。自らの命、家族や友人らの命、財産、文化や自然、それらが直接的に被害を受け、暴力的に軍事力を用いる敵が自分たちの土地に侵攻してきているという現実があるときに、それに対して武器をとって戦うのは当然であり正義であろう。しかし、当事者にシンパシーを感じ、助けたいと感じたからといって、その場に行き、片方の当事者を自ら殺害するようなことは、あってはならないとわたしは考える。同じ人間であるとはいえ、そこはわたしたちの立場は外国人であり、超えてはならない一線があるのだ。

もしわたしたちが戦場で一方に荷担して他方を殺してよいということになると、戦っている人間のみならず、人道支援や報道関係者らにも悪影響を及ぼすことになるうえに、国際法や当事国と義勇兵の出身国の問題も生じる恐れがある。総合的に考えて、義勇兵となることには現地の人にとっても、義勇兵の出身国にとっても、誰にも利もない行動であるといえる。

また義勇兵がいることが、攻撃の口実にもなりうるうえに、実際問題としては、義勇兵によって戦況が好転するようなことは、ほぼないと断言していいだろう。とくに現代の戦争では、射程の長い兵器が使われることが主であり、兵士同士が至近から撃ち合うような白兵戦は、それほど起きないことであるから尚更だ。

戦地の人々を助けたい。この思いには嘘はないだろう。そしてその思いは尊いものだ。しかしだからこそ他に出来ることはある。直接武器を取るよりも、もっと大きな助けになるようなこともある。なによりも大きな支援は、彼らの状況を知り、人々の苦難を共有し、哀しみ、わたしたちは彼らと共にいる、ということを伝えること。世界の人たちが、自分たちのことを心から案じている、そして人道支援やさまざまな支援をしてくれている、という事実が、苦難に在る人々に与える精神的な安心感は小さくないものだ。ましてや、現在ではSNS等で自分たちの思いを瞬時に現地に伝えることが可能なので、ぜひそれをやって欲しい。どうしても直接的な支援を、ということであれば、そういう手段などを通じて、先方とやりとりすれば良い。

義勇兵に関しては、一つ肯定的な見方がありうるが(あくまで私見であるが)、それは自分の出自を捨て、国籍も戦争当事国に変え、現地に骨を埋める覚悟で参加すること。それが出来る、そのつもりで参加する、ということであれば、それはもう止める術はないのではないか。というよりも、そこまでして命を賭けて戦い、この地に骨を埋めます、という意志があるのならば、当事者たちも歓迎してくれるだろうし、それは立派な行いだと思う。

とはいえ、人を殺し、人が殺されることには変わりがない。そんなことは起きない方がいいことは当然なのだから、このような事態を引き起こした政治指導者や現代のシステムに対する憤りは、増すことはあれど消えることはない。

いずれにしても、早期に戦争が終息することを強く願う。それが何より大切なことであり、まずそれが実現してからでないと、何も始まらないのだから。


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