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ちょっと微妙でも面白かった『100万ドルの五稜星』

先日、『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』を観に行ってきた。

劇場版コナンは私にとっても毎年恒例だ。両親介護中も、この映画「だけ」は毎年欠かさず見てきた。もう27作目。私もそうだけど、声優陣もだいぶ歳をとったよなあ。

昨年は、6作ぶりに『黒ずくめの組織』を前面に出し、人気No.1サブキャラ・灰原哀と、これまた人気のベルモットを絡めたストーリーで、スタッフ念願の100億超・過去最高の売り上げを叩きだした。

だが、一方で「伝家の宝刀をついに抜いてしまった」感があったのは否めなかった。このため、今年は反動があると予想していたが、探偵モノの原点に回帰して謎解きも楽しめる流れだったので、いい意味で大いに裏切られ、かなり面白かった。実際多くの人が「過去最高!」と評しているようだ。

今回同様、面白い謎解きだった「迷宮の十字路」。もう20年以上も前の作品だが、原作やTVをよく知らなくても楽しめるものだった。この頃は多忙でTVを見る余裕はなく、原作もそれほど追えていなかった。しかし、劇場版はオリジナルストーリーだったので、1回観ただけでも十分内容の理解は可能だった。

今でも人気作の「ベイカー街の亡霊」をはじめ、こだま監督が手掛けた、従来の探偵モノの型にはまらない素晴らしい作品の数々は、私をこれでもかこれでもかとワクワクさせた。

一方最近の作品は、TVシリーズとも巧妙にリンクさせる路線に切り替わっている。この路線変更は成功して、というか、これがあったからこそ、ここまで長続きしているのだろう。長期でありがちなマンネリ化も、うまく回避できている。

ただ同時に、かなりのファンでないと十分楽しめなくなっているのも事実。もちろん、初めて観るとしてもそれなりに楽しめるとは思うが。

私はアニメでもドラマでも、評価基準として、ストーリーの整合性を重視している。今作は作画について色々言われているようだが、今や伝説になっている数々の作画崩壊シーンを多数目にしてきたためか、気にならなかった。

やはり、生命線はストーリー。その観点では本作で気になったところが2か所ある。

1つ目はターゲットのお宝。土方歳三、北海道、お宝とくればゴールデンカムイが元ネタらしいと多くの人がわかるだろう。でも焦点はそこではない。

お宝は結局「暗号解読機」だったのだが、「そもそもアレは、本当に戦局を一変させるほどのものだったか?」という疑問が拭えないのだ。いかにコナンワールドとはいえ、高が暗号解読機ごときで、日米開戦前後ならともかく亡国寸前にまで追い込まれていた戦局を一変できるわけがない。

史実通りの敗戦必至の状況下では、どんなに米軍の暗号解読がすすんだところで、戦局には何ら影響を与えなかっただろう。何よりも、最大の問題は情報を活用する立場の人間にあった。旧軍や政府上層部にとって、情報は「猫に小判」、元々どうしようもなかった。何せ、在欧駐在武官たちのソ連対日参戦の可能性の情報を全部握りつぶして、そのソ連仲介の和平交渉を進めたぐらいだったのだから。

お宝にまつわるシナリオは、合理性を重んじてきたこのシリーズにしては、少々雑すぎたのではないかと思う。情報を活用して、うまいこと相手を出し抜いているルパンは、所詮個人レベルに過ぎない。国家組織が活用できるレベルは、それとは次元が違いすぎる。

2つ目は、1つ目とも関連するが、福城聖の「特攻」シーンで、残念ながらかなり強い違和感を覚えてしまった。そしてこれこそが、私が本作を過去最高とは評価できない最大の理由になっている。

いくら尊敬する父良衛から、斧江忠之の遺志を受け継ぐように命令されたといっても、今の時代にそれだけで命をかけた行動に移せるものだろうか。

否である。1回目のポエニ戦役後、神殿でローマへの復讐を父ハミルカルに誓わされたハンニバルとは違う。この点抜かりのないスタッフは、作中で聖を最終的にお宝破壊に駆り立てたものは、良衛の命令だけではなかったことを「一応は」描写している。

医師だった聖の母親は、戦場で医療活動をしている最中、戦闘に巻き込まれ命を落とした。この母親の無念の死が、聖をしてお宝の破壊に向かわせた原動力だった。目的が同じでも、忠之の遺志しか眼中になかった良衛の思いとは、大きくかけ離れている。

聖の想いはセスナ機のコックピットに、現地で多くの子どもたちに囲まれた、穏やかな表情の母親の写真を飾っていたことにも表れている。だから、聖が母親を死に至らしめた「兵器」に対して、憎しみを抱いたところまでは理解できる。

問題はその先だ。

良衛も聖も、ずっとお宝が「兵器」であると信じて疑わなかったが、そうなると、聖の「特攻」が極めて不可解、矛盾に満ちたものになってしまうのだ。

まず、戦局を一変させるほどの「兵器」とは何だろうか?それはあの当時なら、核兵器であり生物化学兵器であると考えるのが自然だろう。いずれも戦前から研究され、両大戦で使われた実績もある。母親の遺志を継いで同じ医師を志している医学生の聖に、その知識がないわけがない。

ストーリーでは、この聖が「兵器」に対する憎しみに突き動かされ、「兵器」が眠っている桜のシーズン中の函館山で、空から特攻を企てたわけだが、もし敢行していたらどうなっただろうか?

間違いなく、かつて母親が、戦場で救ってきたであろう同年代の子どもたちも含め、無関係な大勢の人が死ぬ。しかも被害は函館山だけにとどまらず、「兵器」による汚染は道南全域・青森北部にまで及ぶだろう。そして、世代をまたいで死の苦しみを与え続けることになるのだ。当然、全てを予想できたはずだ。その上でストーリーでは聖は、決死の覚悟を胸に秘め、密かにセスナ機と爆弾を隠し持ち、良衛からのGoサインを日々待ち続けていたことになる。

当然だが、この筆舌に尽くしがたい暴挙は、愛する母親の思いを踏みにじるものでしかない。良衛同様、ここに聖が思いを馳せることはなかったのだろうか?

これも否。「聖にそれはありえないだろう」というのが私の結論だ。

タダ単に私利私欲にまみれた人間なら、闇落ちもするだろう。この手の人間は自己利益のためなら、何だってやるものだ。しかし、本作の聖はそんな下劣極まりなさとは無縁のキャラ設定。新一と映画を観る約束のために、嬉々として自分が爆弾を仕掛けたビルに向かう蘭を平然と見送った、森谷帝二とは違うのだ。

高いレベルの心技体の状態を保っているキャラ設定、そして母親への強い想い。これらを踏まえると、どう考えても、慈悲深かった母親の思いを完全否定する愚行を彼にとらせる流れは、極めて不自然すぎやしないか。

己の傷ついた心を癒すために、関係のない大多数を道連れに自爆しようというのは、過去作のトンデモな犯人たち同様、いや、それをはるかに上回るレベルで身勝手すぎるというもの。だから、本作の「特攻」のシナリオには無理筋を感じ、かなり強い違和感を覚えてしまったのだ。

まあ、上映時間110分の枠内で完結させる必要のある劇場版だから、ストーリーの多少の綻びは大目に見るべきなのかもしれない。こだま監督時代とは比べものにならないくらい複雑になり、スケールも巨大化したストーリーを鑑みれば、製作期間だって十分ではなかっただろう。

もちろん、それはわかっている。
わかっちゃいるけど、こだわりのある作品だけに、ついつい高い完成度を求めてしまうんだろうなあ。

なんだかんだ言っても、今年もあと数回は観に行くことになるだろう。
27年経っても、相変わらずコナンは面白い。

(終)


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