カント『道徳形而上学原論』の先駆性
1.長い前置き
私はアバウトな人間で、物事を深く緻密に考えることが出来ない。
しかし普通に生きていくのに深く緻密な思考は要らない(と思っている)から、私は困っておらず、敢えて深く緻密な思考にトライしようともしない。だから、私は哲学書はおろか哲学の入門書すら手にとった覚えが殆どない。
だから、昨日、もっぱら仕事の必要上読んできた本でパツパツの本棚に新しく読んだ本を納めるスペースを作ろうと四苦八苦していたときに突然カントの『道徳形而上学原論』が出てきたときは、驚いた。
誰かの本を間違って持ってきてしまったのか? だとしても、思い当たる友人・知人はいない。困ったぞ。
――中を見たらこの本の出所がわかるかもしれないと、ともかく、開いてみた。すると、「開けてびっくり玉手箱」だったのだ。
訳者後記も含めておよそ190ページ。そのいたるところに傍線が引かれ、ご丁寧にラインマーカーでハイライトした部分もある。それだけなら、この本の元々の持ち主が施したのかもしれないのだが、傍線を引いた箇所のほとんどにメモが書き込まれ、それが、まぎれもなく私の筆跡なのだ。
私は、この本を初めから終わりまで読み通したらしい。それも、何かしら考えながら。そのことが私を驚かせた。
ただ、驚いたのは読んだことすら覚えていないからであり、したがって、中身が頭に入っている可能性は限りなくゼロに近い。
にもかかわらず、私は、「哲学と最も遠い地点にいる自分という人間が、どう見ても《ガチンコ》の哲学書にしか見えないこの本を読んで、いったい何を思ったのか?」ということに、興味を覚えた。自分が知らない自分を覗き見るような好奇心を覚えたと言ったら、そのときの気分に一番近いと思う。
という次第で、私は本日の仕事を終えると書棚からおもむろに『道徳形而上学原論』を取り出し、読み始めたのである。
予想通り、難しかった。何が書いてあるのかチンプンカンプンだった。
ただ、過去の私が傍線を引いたりハイライトしたりした箇所だけは、「こんなことを言ってるんだろうなぁ」という程度には理解できた。そのレベルを「理解」と言うなかれ――と言う声が聞こえてきそうだが、アバウトな私にとっては、この程度でも、十分に「理解」のうちである。
すると、その理解できた部分の発想が、私が個人的な関心と仕事上の必要から比較的最近に読んだ2冊の本の発想と相似形であることに気づいた。
その2冊は、エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学 生態心理学への道』 と 斎藤純一/田中将人『ジョン・ロールズ 社会正義の追求者』(政治哲学者ジョン・ロールズの思想の解説書)である。
カント(1724年~1804年)、リード(1954年~1997年)、ジョン・ロールズ(1921~2002)であるから、カントはリードとロールズが世に現れる2世紀近く前に、二人の発想を先取りしていたのである。私はカントのこの先駆性に驚き、その驚きを伝えたい一心で、いま、こうしてキーボードに向かっている。
前置きが長くなった。そのせいで、せっかく読んでくださっている方と「長いお別れ」になってしまっては、いけない。ここから先はスピードを上げサクサクと進めて行く。
2.『アフォーダンスの心理学』の先駆け
まず、『道徳形而上学原論』から引用する。私たちが物を認識するとはどういうことかを説いた部分である。
我々に現れるすべての表象(感官の表象のような)が、我々に対象を認識させるのは、まったくこれらの対象が我々を触発するからにほかならない。しかしその場合にこれらの対象自体がどのようなものであるかは、我々には依然として知られていない。我々は現象の認識に達し得るだけであって、決して物自体を認識し得るものではない。
カント『道徳形而上学原論』岩波文庫2011年1月14日 第68刷 P151
物自体は、決して我々に知られるものでなく、我々が知り得るのはただこれらの物自体が我々を触発する仕方だけである。
カント『道徳形而上学原論』岩波文庫2011年1月14日 第68刷 P151
次に、『アフォーダンスの心理学』から抜粋する。ここで、リードは、アフォーダンスとはいかなるものであるかを定義している。
ある生物を「運動するもの」にするのは、周囲の利用可能な資源を利用するために、自己と周囲との関係を調整する能力である。ある動物が切り結ぶこの資源を環境の〈アフォーダンス〉とよぶことにしよう。
エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』
新曜社2003年2月10日 初版第4刷 P35~37
この定義をみただけでは、カントの認識論とアフォーダンスの考え方がどう結びつくかは、まだ見えてこない。もう少し我慢してお付き合いいただきたい。
抜粋を続ける。ただし、《 》で囲った部分は、楠瀬が元の表現を改変しているか、元の表現に加筆するかしている。
アフォーダンスは環境の特徴であり《スズメにとって、電線は羽を休めるときの足場に使えるという環境の特徴である》、実際には利用されていないときでも《スズメが巣に帰っているときでも》、個々の動物からは《スズメからは》独立に存在している。《ぼくらは環境の中に利用可能な資源(アフォーダンス)を見つけ出し、それを利用する。》そうすることで環境を変化させるかもしれない。》しかし、環境がここになければ、ぼくらはここにはいない。
新曜社2003年2月10日 初版第4刷 P56~57
ここまでくると、カントの認識論とリードのアフォ―ダンスの考え方の相似性が見えてくるはずである。
スズメは、電線という環境の特徴から触発され、そこに止まって羽を休める行動を取る。
しかし、それは、スズメが電線を電線として認識していることを意味しない。自分が止まり木代わりに使っているその黒くて硬いもの自体がなにであるかをスズメは知らないし、知る必要もないのである。電線が自分を触発する仕方――つまり、止まり木代わり使わせるということ――を知ってさえいれば十分なのだ。
カントが主張しているのは、《物の不可知性》である。私たちは物自体を認識することはできない。このことは、例えば、私たちが友人と一緒にコウモリの巣窟になっている洞窟に入ったとき、私の友人を、私とコウモリが同じ物(この場合は生き物だが)として認識するかどうかを考えてみると、すぐにわかるはずだ。
物体Aがあったとき、光情報で物を認識する人間にとっての物体A-1と、超音波で物を認識するコウモリにとっての物体A-2が、全く異なった物になるであろうことは、容易に想像がつく。しかも、このとき、物体A-1と物体A-2のいずれかが物体Aそのものであると決めることはできない。
生物が物を認識する仕方は身体形状と神経系のシステムに規定される。したがって、生物によって認識される物としての物体Aには、A-1、A-2、A-3、A-4、A-5……と、生物の身体形状と神経系のコンビネーションの数と同じだけのバリエーションがある。
アフォーダンスの考え方も、「我々が知り得るのはただこれらの物自体が我々を触発する仕方だけ」というカントの認識論と同様の認識論に基礎をおいているのである。
ところで、「我々は……物自体を認識し得るものではない」というカントの言葉は、哲学の中の一つの系譜を思い起こさせる。それは、フッサールを始祖とする現象学である……と書いていて、私がなぜ『道徳形而上学原論』を読んだのか、なんとなく記憶がよみがえってきた。
竹田 青嗣『はじめての現象学』を読んだからだと思う。私は在宅作業中で『はじめての現象額』は会社の書庫にあるから引用も抜粋もできないが、カントの認識論が書かれていたことを記憶している。それでカントに興味を持ち、認識論についての記述があって手ごろな厚さだった『道徳形而上学原論』を読んだ……多分、そういう経緯だったと思う。
「1.長い前置き」で、私は哲学とは無縁だと述べたが、現象学だけは違う。現象学を基に生まれた「社会構成主義」という考え方があり、それが企業組織を考える上で参考になるからだ。
下記のサイトは広告サイトだが社会構成主義がどのように組織運営に役立つかを分かりやすく説明しているので、参照されたい。
カントの認識論とアフォーダンスについて話は尽きないのだが、すでに長くなりすぎているので、次のテーマに移ることとする。
3.ロールズの「無知のヴェール」の先駆け
ジョン・ロールズは20世紀の政治哲学者の中でも、最も大きな影響力をもった一人であり、その『正義論』は現代の古典である。この『正義論』の屋台骨を成す考え方のひとつが「無知のヴェール」である。その内容については、あとで詳しく述べる。
カント『道徳形而上学原論』には「無知のヴェール」の先駆けとなる発想が現れている。そのことを明らかにするため、まず、『道徳形而上学原論』の抜粋から始めたい。
私の格律(訳者注:行為を規定する主観的原理)が普遍的法則となるべきことを私もまた欲し得るように行動し、それ以外の行動を決してとるべきでない。
カント『道徳形而上学原論』岩波文庫2011年1月14日 第68刷 P42
これは、なんともいやはや難解だ。頭から血の汗を流し、それでも間違えてしまうことを観念したうえで敢えて解釈すると、「主観的なルールを作るとしても、自分の主観的なルールが普遍的なルールになって自分自身を縛ることになっても、それに喜んで従えるようなルールを作らねばならない」と言っているのだと思う。
カントは、さらに、次のようにも述べている。
定言的命法は、ただ一つある、すなわち次に掲げる命題がそれである――「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」
「定言的命法」というのが、これまた、わかりにくい(と、少なくとも、私は思う)。私は大変に困ったので、コトバンクから「定言的命法」の説明を引用することにした。いわく:
カントの説いた道徳法則の形式。道徳的実践は命令の形で理性に与えられるが,それは「もし…ならば,…せよ」というように,快とか幸福などのほかの目的のための手段として働くような仮言的性格のものであってはならず,単に「…せよ」という無条件的,絶対的なものでなければならない。それゆえ定言的命法といわれる。
上述のカントの考え方の中で、「自分が決めたルールが自分にも適用されることを喜んで受け容れる」というところが、ロールズが提唱した「無知のヴェール」の先駆けになっていると、私は考えている。
「無知のヴェール」について、斎藤純一/田中将人『ジョン・ロールズ 社会正義の追求者』から抜粋する。少し長くなるが、ご容赦願いたい。
〈ロールズが追求した〉「公正としての正義」とは、公正な契約手続きこそが実質的内容をもつ正義原理を正当化するという考え方を指す。契約当事者が、互いの間に一切の優劣がない平等なベースラインに立つ場合に、この公平さは担保される。
この公平さを確保するために用いられるのが「無知のヴェール」(veil of ignorance)である。原初状態(楠瀬注:社会関係がまだ一切成立していない白紙の状態)の当事者は、このヴェールによって、自他を区別する一切の情報(才能・体力・人種・ジェンダー・富など)から遮られる。
したがって、原初状態の当事者は、うまくいけば有利な立場を占めることが可能な正義の構想を探るのではなく、もっとも不利な立場におかれることになってもなおも受容できるような正義の構想を求める。ロールズはこの考え方をマキシミン・ルール(諸々の選択肢の最小値のなかでもっともましなものを選択する)とよんだ。〈 〉内は楠瀬が補足
斎藤純一/田中将人『ジョン・ロールズ 社会正義の追求者』
中公新書 2022年2月5日 再版 P59~60
硬い表現ですが、私は「うまくいけば自分が有利になるようなルールでなく、自分が最も不利な立場におかれたとしても受け入れられるルールを作ろう」と言っているのだと解釈しています。
この考え方は、カントの「自分の主観的なルールが普遍的なルールになって自分自身を縛ることになっても、それに喜んで従えるようなルールを作らねばならない」という考え方に非常に近い。
乱暴なたとえを使えば、どちらも「自分が一番の貧乏クジをひくことになっても、その結果を受け容れられるようなクジ引きのルールにしよう」と言っているのだ。
カントはロールズの「無知のヴェール」という発想を先取りしていたわけだが、ロールズが意図的にカントの思想を継承した結果、相似た発想になったというのが実態のようである。斎藤純一/田中将人『ジョン・ロールズ 社会正義の追求者』は、ロールズはカントの深い関係を指摘している。
(ロールズの)『道徳哲学史講義』の「カント講義」は何年にも及ぶ着実な読解の成果であるし、『正議論』それ自体がカント哲学を現代によみがえらせた古典だといえる。( )内は楠瀬が補足
斎藤純一/田中将人『ジョン・ロールズ 社会正義の追求者』
中公新書 2022年2月5日 再版 P200
ここで、「私が知らないだけで、リードも実はカントを読んで参考にしていたのではないか?」という疑問が浮かんでくる。積極的に参考にしようとしたかどうかは別として、リードがカントを読んでいた可能性は高いと思う。
カント哲学は近代の近代西洋社会の屋台骨の一つである。少なくとも大学時代にカントについて学んでいたと考えるほうが自然だ。直接カントの著作を読んでいなかったとしても、解説書は間違いなく読んでいただろうと、私は思っている。
人類の文化的伝統とは、そういうものなのだろうな、と私は思う。ある思想の先駆者がいれば、その後継者もいる。埋もれた天才を後世の人間が発掘し、その天才の考え方が新しい世界への扉を開くこともある。
そのような知的営為の連続性に気づくのも読書の楽しみの一つかもしれないという感慨を述べて、今回の投稿を終わりとしたい。
ここまでお付き合いくださった皆様に、心からお礼申し上げます。
『カント「道徳形而上学原論」の先駆性』おわり
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