見出し画像

メルボルン・バスキング・デイ vol.7

フラットメイト、ヒデ君

ラーメンには究極の一杯というのがあるらしい。同じラーメンでもその時の気温や湿度など諸々の条件が上手く揃った時に最高に上手い一杯が出来るという話だ。確かに昔良く通っていたラーメン屋でも時間帯によって味が大きく異なることを経験したことがあるし、分野は違うが京都の老舗の漬物屋はその日の湿度に合わせて漬け具合を調整するという話もあるらしいので、あながち起こりえる現象かもしれない。しかし、忘れてはいけないのは、そのラーメンが研究に研究を重ねて作られたものであるということが大前提である。そして、その条件が揃う日を予見することは難しい。その場に居合わせることはとても幸運なことなのだ。


ヒデ君に出会ったのは今年の二月頃メルボルン郊外にあるタダ飯の聖地こと「Lentil as anything」で演奏していた時だった。聞けばメルボルンに来たばかりで部屋を探しているというので、我がフラットの空き部屋を紹介した。さらに話を聞くと彼はドラマーで音楽のためにメルボルンに来たと言う。

言うまでもなく私たちはすぐ意気投合し、私は近場のオープンマイク、いわゆる飛び入り参加で演奏するイベントや生活費を稼ぐ手段としてバスキングの話をした。彼の行動はとても早く、バスキングライセンスの申請もすぐに取りかかったし、紹介したいくつものオープンマイク会場に足を運ぶだけでなく、さらにそこで地元のミュージシャンが集うセッション大会のイベントを紹介してもらい毎週夜通し叩きまくると言うから驚きだ。

その結果、彼はいくつものバンドのサポートに携わることになった。しかし、それだけではとても食べてはいけないので、バスキングを始めるのだが、二月末に行われた「White night festival」では現地で購入したドラムキットを一晩叩いて初バスキングにして何と150ドルほどを稼いだのだ。

彼のメルボルンライフは幸先良くスタートした。かに見えたが、その後はバスキングが上手くいかず、全然稼げないと言うのだ。色々場所や方法を試したがダメだと言う。フェスではそこに音楽があれば、人々があたかも狂乱状態に陥ったが如く踊り狂うので、特にリズム楽器はバスキングがとてもしやすい。

しかし、普段の日はそういうわけではない。演奏で行き交う人々の足を止め、さらに盛り上げるというのはとても難しく、どうすれば見てもらえるか、どうすれば稼げるようになるのかを考えるのがバスキングの本質と言える。彼はその時既にドラマーとしてはプロフェッショナルではあったが、バスカーとしてはまだまだ駆け出しの素人であったのだ。

そして、彼の孤軍奮闘も空しく、メルボルンも夏が終わり、バスキングシーズンに終わりを告げる冬が無情にも訪れようとしていた。いくら素晴らしいバスカーでもシーズンオフに稼ぐのはとても難しい。私自身そのことを十二分に知っていたので、三月末に語学学校の全授業を終えた私は、肌に刺さるような冷たい風が吹き始めたメルボルンを背にそそくさと日本に帰国した。その後の彼の音楽活動は時々Facebookで目にしていたのだが、ルームメイトでDJのリュウダイ君とユニット「Falf」を組んで、楽曲制作に励んでいること以外は知ることが出来なかった。


そして、月日が経ち、性懲りもなく半年ぶりにメルボルンに帰って来た私だが、奇しくもまた同じフラットに滞在することになった。ヒデ君から私がメルボルンを去ってからの半年間について話を聞いたが、メルボルンの冬は寒い上に雨が多くバスキングは惨惨たる様だったようだ。

私もメルボルンは三度目だが前の二回とは異なり、今年は十月になっても雨の日が多い。冬はなおさらだったのだろう。不幸なことに、ヒデ君自身も体調を崩して持病が悪化し、一ヶ月ほど寝込んでしまうこともあったみたいだ。貯金もわずかばかりになり、帰国という文字が何度も頭をよぎったこともあると言う。

しかし、彼は音楽活動のため、留まることを選び、雨の日は楽曲制作に励み、たまにある晴れの日にはバスキングに出かけて生活費を稼ぐという日々を過ごしていた。半年間も。彼がその期間で得たものは彼の演奏を見れば一目瞭然だった。

ドラムキットを分解して鍋やアルミプレートなどと一緒に地べたに並べて、ドラムスティックで即興で叩き回るガチャガチャ系金物パーカッションとでも言おうか。そういったスタイルで奇をてらっているバスカーは多いのだが、彼がひと味もふた味も違うのは、彼の演奏は彼の確実なドラムテクニックに裏打ちされており、ガチャガチャ叩いていても、時には金属プレートを投げたり、バケツを動かして音を出したり、一見人を驚かせたいだけに見える所作すらも、全て音楽に昇華されていることだ。

このパフォーマンスがバスキングで上手くいかないはずがない。それほど完成度が高い。しかし、彼が言うには上手くいく日といかない日の差が大きいという。そして稼ぎの最高額もそれほど高くはないみたいだ。まだ条件が出揃っていないだけであろうが、完全にシーズンが到来すれば彼の独壇場になることは間違いないはずだ。


昨晩はThanks givingの連休二日目で、もうそろそろ夏が訪れようとしている時期であるはずなのにそれをメルボルンが頑に拒んでいるかのような寒い夜だった。いつものバスキングスポットであるカジノ前に私が到着したのが八時半頃。ヒデ君はもうすでに一時間ほど演奏したところで、私が到着する少し前にちらほらチップが入り始めたとのこと。

バスキングは集中力が持続するのが一回で一時間半ほどなので私は九時頃までヒデ君のバスキングを見学して場所を交代してもらった。ヒデ君はいつもバスキングしている場所に向かうと言うのでそこで別れ、私はバスキングを始めた。風が強く、そして寒い。どの要素もバスキングにとっては悪条件である。

しかし、何故か音抜けが良く演奏が気持ち良いのだ。そして行き交う人々もいつもより元気がありそうだ。ところが前日のバスキングで気力を使い果たしたのか、行き交う人々へのアピールに乏しい演奏になってしまい、全く上手くいかなかった。そこへヒデ君が帰って来ていつものスポットは演奏が出来なさそうなので諦めて戻って来たと言うので、ものの一時間ほどの演奏で私は切り上げ、ヒデ君に場所を譲り彼のバスキングを見物することにした。

さてこの条件が吉と出るか凶と出るかと思って見ていると、どんどんと立ち止まる人が増えていくではないか。そして、まるで宴であるかのように踊り出す人も出て来た。そして、彼にチップを渡す人も途絶えることなく、それもコインだけではなくお札を渡す人も。

勿論そうした人々の賛辞に値する以上に彼のパフォーマンスは素晴らしかった。16年間培って来たドラムテクニックでダンスミュージックのビートを繰り出したり、時にはすぐ後ろにある金属製のゴミ箱をとてもリズミカルに叩いてみせたり、また時には玩具のあひるの鳴き声のするアヒルのくちばし型の笛を吹いてみたり。見ている人々は彼の一挙手一投足に目が離せず、リズムを感じつつも、時には驚き、笑い、彼のパフォーマンス、音楽を堪能していた。

そして二時間半ほどのバスキングを終え、意気揚々とフラットへの帰路につき、道中一体いくらぐらい稼いだのかと予想を話し合った。ヒデ君は恐らく300ほどだろうと言い、私は控えめに少なくとも350だと予想した。しかし、帰宅後他のフラットメイトも交え三人で集計したところ二人の予想を遥かに超えた530ドルであった。

バスカーにとってバスキングでどれだけの金額を稼いだかという話は、釣り人の釣った魚のサイズの話に似ていて、それを示すだけで同業者を黙らせ優位な立場で話が出来るほど、ともすればバスキングの世界を想像出来ない一般の人にも一目置かせれることができるほど、どれだけ音楽的に優れていようがいまいがそんなこと関係なくつきまとってくるものである。

しかし、優れた音楽家であっても必ずしも優れたバスカーではないと言う現象は悲しいことに決して珍しいことではなく、逆もまた然りなのである。適切な時間、そして適切な場所に着ぐるみを着て楽器を適当に演奏してもコインは稼げてしまう。それがバスキングである。

真面目に音楽を追究している人間にとっては時として自分の音楽で稼げないことがジレンマとなり、自分の音楽を崩してまで金銭を稼ぎたくないとバスキングを辞めてしまう人もいるのだ。しかし、彼は自分の頭の中にある音楽を崩さず、自分自身のバスキングスタイルを築き上げた。半年間もかけて。

そして、それは世界のどこに行っても恥ずかしくない、いやむしろ人々に何かを与えること出来るほどのものだと私は思う。私はその夜のその瞬間をずっと忘れないであろう。彼のパフォーマンス中に踊っていた人々が、彼が演奏を終え、サンキューと言い、深くお辞儀をした時に、踊るのを止め、彼に惜しみなく賛辞の拍手を送り、恐らく偶然通りがかってその場に居合わせただけであろう人たちと抱き合って、お互いを讃えあっていたことを。

そこには人種や国籍もない。ただ彼の音楽を共有した人々がいたのだ。

そう彼は異国の地、メルボルンにて自分の音楽を達成したのだろう。これからメルボルンにはバスキングシーズンである夏が来る。私はメルボルンを去り、彼の活躍ぶりを直に見ることが残念ながら叶わないが、彼が自身の音楽でさらに多くの人を感動させていくことを願ってやまない。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?