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台北・バスキング・デイズ vol. 0

 台湾に行きたいって君が言うから

「平成最後の〜」なんて言葉が飛び交う三月、今年は比較的暖冬だと言われた京都の冬も終わり、徐々に暖かくなってきたのを肌に感じつつ、京都は河原町通りをふらふら歩いていた。

思えば、二年前のちょうどこの頃は失意のニュージーランド縦断バスキングを終え、帰国後すぐに京都府庁に履歴書を送っていた。その結果、金曜日に履歴書を提出したのに、次の月曜日には府庁の人事課から連絡があった。そしてトントン拍子に京都のある高校に常勤講師としての採用が決まったのである。

そう言えば、大学院は籍を置いた状態で結局三年ほど休学という形にしていたのだが、人事課の人に「休学中は何をされていたんですか。」と電話口で聞かれたので、自信満々に「ギタリストです。」と答えたら、しばらく妙な間があった。やはり一般的には理解しがたい職歴かもしれない。

学校側に提出した書類にも前職ギタリストと書いて提出したのだが、後日仲良くなった釣り好きの事務の人に聞いたら、「なんていう自由人が来たんだ」と仰天したと言っていた。

そこから一年なかなかギター弾く時間も取れないまま忙しい日々を送っていたのだが、新しい年を迎えると、当時教えていた二年生が卒業するのを見送ってあげたいと思うようになっていた。そして、二月ごろに校長先生に進退を聞かれたわけだが、「もう一年続けたいです。」と答えていた。

しかし、常勤講師というのはそもそも京都府全体を見渡しても口が少なく、非常勤講師なら続投可能だという話だった。この提案には大いに悩んでしまった。授業コマ数は同じだが、進路指導部や生徒部といった分掌の仕事がなくなるかわりに、収入が半分くらいになってしまう。

その一年間は京都に一人暮らししていたのだが、住居費手当などの諸々の手当も全くなくなってしまう。うーん、どうしたものかと悩んだ末に出した結論は、非常勤講師として続投する、大阪の実家に住まい、そこから毎日一時間半かけて通勤する、ということだった。

貯金を増やす目的もあったし、何よりも自分の担当した生徒たちが卒業するのを見たかったという気持ちもあった。しかし、何があるかわからんなぁと、琵琶湖で魚釣りに興じながら思ったものだ。

「春の人事とかけまして、30代独身男性と説く、その心は、どちらもよめない」。そんなこと言ってる場合でもないよな。30代いらんし。

次の一年は、一週間17コマ中13コマが三年生の授業で、残りが一年生の授業であった。担当の三年生のほとんどが二年生の時とメンバーが変わらず、お互いある程度勝手がわかっていた。そして一年生はとても大人しく、ちゃんと指示を聞く子達だったこともあって、授業はとてもスムーズに開始できた。

最初は特にトラブルもなく淡々と日々が過ぎていったのだが、一学期と夏休みが終わり、ちらほらと進学が決まった生徒が出てくると、徐々に三年生の授業での私語が増えてくるようになった。

特に部活が終わった生徒たちは「もはや俺たちを止めれるものはなにもねぇ」といった傍若無人な態度で、いくら注意してもなかなか静かにすることができなかった。それまでは部活の顧問に授業態度を密告するという脅しが通じたのにもはやその切り札も効かなくなってしまった。

何度担任の先生に「ご相談」に伺ったかわからない。本来は授業担当者である自分が解決するべきことなのだが、何度「これを提出しなければ卒業できない」という話をしても行動に移さない生徒がいる場合は、担任の先生に申し訳なく思いつつも、お伺いしに行ったものだ。

そして、年末が近づくにつれ、どんどん荒れてくる生徒たち。「先生は君たちが卒業した後、四月になって学校となんの縁も無くなった瞬間に、一人ずつしばきます。」と言ってみるものの、「じゃあ、その時に何か奢ってくださいね」と答える始末。

年が明け、一月になり、成績をつける準備、試験を作成と慌ただしく過ごし、そして二年生から見ていたクラスもとうとう最後の授業を迎えていった。と言っても、学年末考査試験前は自習時間にしていて、特に言ってやりたいはなむけの言葉もなかったので、教卓で試験への質問に淡々と答えていくだけだった。

女の子の多い看護クラスは何もなくそのまま終わり、進学コースのクラスはとうとう終わっちゃったな、という晴れ晴れとした雰囲気だった。一番手のかかったスポーツクラスは、次週開始当初から悪ふざけ始める生徒がいたので、「調子にのるな」と脅しをかけるが、「最後くらいいいじゃん」と、もう恐れるものは何もないと言った感じで反抗してくる。

質問をしてきた生徒にも緊張が見られ、チャイムが鳴るときまで気が抜けない状態であった。最後なのにな。そしてチャイムが鳴った。

そのまま、挨拶を終えて帰ろうと思ったが、一人の生徒が「先生、二年間ありがとうございました!」と叫んだ。そして、デジカメを取り出して、撮影会が始まり、最後には拍手しつつ「ありがとうございます!」と声をかけてくれた。流石に心にグッとくるものがあった。

そう言えば、二年間も見てたしな。自分にとっての二年と生徒たちにとっての二年はまた感じ方も違うかもしれないな。と思いつつ教室をあとにした。

そして、学年末試験が一月末に終わり、採点も終わり、あとは成績を提出するだけで、日課である釣り好きの事務員さんとの釣り談義を終えて、職員室に帰ると職員室前でたむろしているスポーツクラスの生徒たちが見えた。

おそらく別件だったのだろうが、私を見るや否や「なんでテスト難しくすんの」と猛抗議を始めた。ある生徒は9点という笑えない点数を取ってしまい、面目なさからなのか「今度ラーメンおごります」という謎の発言をしていた。

「いや、最後だし、皆俺の思いに応えて勉強してくれると思って」

そんなやり取りを最後に三年生を見ることはなくなった。彼らは週一回程度は学校に来る必要があるがもう授業はないのだ。

そして、私は一日一コマというお気楽講師生活が始まったのだ。一年生は相も変わらずよく言うことを聞くし、こんな楽でしかも給料変わらないって、天国ですか。なんて思っているうちに、三月一日卒業式の日を迎えた。

荘厳な、といってしまうと大げさかも知れないが、ある種の緊張感を帯びて式は進行していき、最後は退場する生徒たちを拍手で送るという場面になった。式中は、式が行われた体育館の出口付近の席にずっと陣取っていたので、出口の真ん前で機械のように拍手していた。

行進してくる生徒の中には泣いている生徒もいたが、なぜか皆達成感に満ちているかのようにキラキラしていた。そんな姿を見てると、それまで思い出すたびに沸々とこみ上げてた色々な不愉快な思いが、「絶対しばいたる」という気持ちが、「もうどうでもいいや」と不思議と流れ去っていった。

皆卒業してしまうんだな。

豚の目の解剖で「だから〜、無理だって言ったじゃあ〜ん」と泣き出してしまったあいつも、授業中に忘れ物を取りに戻るため廊下を歩いている私を見つけ、窓や扉が全部閉まっているのにも関わらず、ディズニーランドでミッキーを見つけたかのようなテンションで私の名前を叫んでいたあいつも。

卒業ってなんなのかね、人は何で卒業するんだと色々な考えが頭の中を飛び交い始めた。そうこうしているとスポーツクラスの連中が行進して来た。そして、私を見つけると、「先生やん!」「先生!」と叫び出す。

なぜ公衆の面前で「こいつここにいやがんぞ」と周囲に知らせようとするのか。

恥ずかしいからやめて。

そして、別の女生徒が叫ぶ。

「先生、泣いてもいいんですよ」

うるさい。

誰が泣くか。

お前ら、

卒業おめでとう。


 三月は色んなことが終わっていく時期だ。そして、四月には新しいことが始まっていく。

私は一つの決断をしていた。この三月をもって二年間続けていた講師業をやめる。

もともと別の職を希望していて高校講師業はいわば貯金の意味合いが大きかった。

授業を持っていた一年生もとても良い子達だったので名残惜しい気もしたが、所詮一介の講師にできることも知れているので、自分は次の道に進んで行こうと思った。

校長先生には続投しない意向を告げ、他の先生方にも挨拶して回った。あとは、一日一時間自分の散らかった机を整理するためだけに学校に来る日々。

昼前に来て掃除をして、事務員の人と釣り談義をして帰っていく。

せっかく京都に来ているしと言うことで、三条でラーメンをすすり、ふらふらと四条駅方面へと歩いていく。

四条河原町に近づいていくと、聞き覚えのあるギターの音色が。ひょっとすると、と思い、足を早めて交差点の方に近づいていくと、黒のハットを被り、黒の衣装で、ギターを軽快に弾いているゆあさまさやさんがいた。

演奏中だったので数曲キリのいいところまで聞いていたのだが、私を見つけると「お久しぶり〜」と声をかけてくださった。

そう言えば、ゆああささんは台湾に行っていたなとフェイスブックの投稿を思い出し、色々とお話を伺ってみた。

台北でとてもたくさんCDが売れたという話を聞いて、とても興味深いなぁ、と思っていたところ、ゆあささんが「そもそも、君が言ったんだよね。台湾が良いって。」と。

「オーストラリアと台湾をすごく推していたから色々吟味した結果、台湾にしたんだよね」

なんと、まぁ。

「だから言い出しっぺなのに台湾に行ってないのは話がおかしいいんじゃないの」

最初は「へ?」と思っていたが、よくよく考えてみると様々なことを思い出してきた。

自分がずっと台北に憧れがあったこと、思いが強すぎて「地球の歩き方」を買うも何故か周囲の友人に貸し出すのみで自分には一向に使う機会が訪れず、挙げ句の果てには行ってもいない台湾の音楽事情を熱く人に吹聴してまわるっていう。

そう言えば、確かに言ってました「今、台湾が熱いんすよ」って。

台湾行ったことないくせに。

私でした。

誰よりも台湾に行きたいって思ってたの。

帰路の京阪電車に揺られながら考えていた。

時間に余裕はあるし、このチャンスを逃したら次はいつ行けるかわからないし、行ってとくか。

台北へ。

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本編に続く。

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