見出し画像

『世の中には大きく分けて二種類の酒飲みがいる。』映画「ドライブ•マイ•カー」

世の中には大きく分けて二種類の酒飲みがいる。
ひとつは自分に何かをつけ加えるために酒を飲まなくてはならない人々であり、
もうひとつは自分から何かを取り去るために酒を飲まなくてはならない人々だ。

『女のいない男たち』p.47/村上春樹


映画「ドライブ•マイ・カー」を観た。約3時間。
最近めっきりスマホ中毒で、15分のYouTube動画も飛ばしながら見ているし、絶対途中で集中切れるなと思っていたが意外とあっさり見切れた。でも長かった。

--ここからは、ネタバレしそうなので読み進める場合はご注意ください。--

原作は読んでから7年経っていて、内容もうろ覚えだったので、「ドライブ•マイ•カー」が収録されている村上春樹の短編集「女のいない男たち」を本棚から引っ張り出し、読み返す。

なるほど。「ドライブ•マイ•カー」を原作にしながら、エッセンスとして同短編集に収録されている「シェエラザード」や「木野」なども取り入れながら脚色されていて、きちんと読んでから見に行くべきだったなと反省。
読んでから見に行っていれば、冒頭シーンで「え、これドライブマイカーちゃうやん。シェエラザードやん」てつっこめたのに。
主人公家福の妻、音(おと※妻の名前)にシェエラザード要素を取り入れたことで、霧島れいか演じる音に不思議な魅力が生まれていたし、後半のとても大事なシーン(家福と高槻との車内での会話劇)にも活きていて、そりゃカンヌの脚本賞も取るわなと納得した。

早速本題、冒頭の『世の中には〜』はもちろん、小説「ドライブ•マイ•カー」からの引用で、主人公である家福が、高槻の酒癖(の悪さ?)を形容する為に使った表現である。(高槻は後者であったらしい。)
小説の中で、この一文がなぜかとても印象に残った。(共感したとかではなく)

それは映画にも踏襲されていて、映画内での高槻は恐らく、俳優としての自らの過去のイメージを取り去るために酒を飲まなければならない人なのだろう。事務所をやめて(確か)フリーで活動しているし、酔った高槻はとあることをされるとすぐにキレる。

一方、家福はどちら側の酒飲みなのだろうか。そもそも家福は嗜む程度なので、どちらにも部類されない気もするが…。
ただ、その視点で整理できると、よりこの映画を深く理解できるような気がした。
クライマックスの家福と高槻の車内での会話劇で大きなカタストロフを迎え、高槻はそこで取り去りたい“なにか”から脱却し、新たな役者としての第一歩を踏み出すことができた。(それが長くは続かないものの)
家福はあの場で何かを付け加えようとしたのか、あるいは何かを取り去ろうとしたのか。

ということで、答え合わせの為、2回目の鑑賞を近々…。

小説とセットでみると、絶対より楽しめるよん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?