見出し画像

明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(上)

(この記事は2020年12月22日-25日にかけてのtwitter連載を編集したものです)

 新横浜ラーメン博物館で、来々軒の「らうめん(青竹打ち)」を食べました。(先頭の写真)

 伝説の浅草の店、来々軒の110年前の味を復刻するというプロジェクトから生まれた一杯。私好みの味で大変美味しゅうございました。

 復刻には様々な苦労があったことでしょうし、実に意義深い事業だと思います。

 ですがこのラ博の「らうめん」、昭和初期の復刻版としては正しいのでしょうが、「110年前の来々軒のらうめん」、つまり明治時代末から大正時代のらうめんとは全く異なっている可能性があります。

 ニュースリリースによると、ラ博来々軒のらうめんは浅草来々軒三代目の故・尾崎一郎さんら、親族の方の証言をもとに復刻されたそうです。尾崎一郎さんの証言は、『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子)にも収録されています。

”来々軒のシナそばですか? スープは鶏ガラ、豚骨に野菜で(中略)麺の材料は粉に卵にかん水。”

画像1

”これをまず手でまとめていく、ある程度全体がまとまったところで青竹を使って伸ばすシナのやり方で仕上げていく”

 ”青竹を使って伸ばすシナのやり方”とは、当時広東地方で行われていた製麺法で、現在でいうところの竹昇麺のことです。


”そばの上に載る具はシンプルなもんでしたよ。焼豚にシナチク、あとは刻み葱だけ。味は醤油です。”

 竹昇麺といい焼豚といい、新横浜ラーメン博物館のらうめんは尾崎一郎さんの証言に忠実に再現されたもののようです。スープは現代風にアレンジしているそうですが。

 来々軒三代目の尾崎一郎さんが生まれたのは大正6年。店を継いだのは昭和10年。

 彼が実際に体験したのは昭和の来々軒の味。

 ところが大正時代以前の来々軒のらうめんは、昭和のそれとは異なっていた可能性が高いのです。


”風俗評論家の植原路郎氏によると、大正七、八年頃の「来々軒」のラーメンは、豚の骨を煮出してとった濃厚なスープに醤油味をつけた汁の中に、太目のちりちりした、上質のかん水を使った麺が入っていて、その麺のほかには何も具がのっていないものだったという。”

画像2


 明治27年生まれの植原路郎によると、大正7,8年ごろの来々軒のらうめんは、”濃厚なスープに醤油味”かつ具がのっていなかったというのです。(『食の地平線』 玉村豊男)

 『食の地平線』には、明治30年代の横浜南京町(現横浜中華街)の柳麺(ラオミン)を食べた中国人の古老へのインタビューも乗っています。その古老によると、現在の中華そばの先祖である南京町の柳麺のトッピングは

”具はまったくないか、あったとしてもメンマ(シナチク)をのせただけの簡単なもの”

食の地平線5

というものでした。


 他にも作曲家の團伊玖磨が、戦後直後の南京町の柳麺(ラーメン)には”今のように支那竹などが載っている訳でも無く”と証言しており、南京町の柳麺のトッピングは店や価格によって違っていたようなのです。(『続々 パイプのけむり』 團伊玖磨)

 (『お好み焼きの戦前史』における該当記述箇所はnoteで無料公開しています。詳しくはそちらを。)

 明治末期から大正時代の来々軒のらうめんは、その先祖である横浜南京町の柳麺(ラウミン)の一部と同じく、トッピングがなかった可能性があるのです。


 また、植原路郎の証言によると、来々軒の丼は”真白で模様がなく、わずかに内側に細い青い線が一本入っていただけ”でした。これも新横浜ラーメン博物館が来々軒三代目尾崎一郎の証言をもとに再現した丼と異なります。

画像4


 さて、最大の問題はスープです。

 植原の証言にある大正7,8年ごろの来々軒のらうめんのスープは、ラ博が再現した来々軒のらうめんのスープとは、かなり違っていました。

 来々軒に関する展示パネルの文言によると、ラ博では来々軒のらうめんの味を次のように考えています。

”明治後期、横浜では既に南京そばが普通に知られていましたが、南京そばは「豚臭さ」と「脂っこさ」という弱点がありました。”


”尾崎貫一氏はこの弱点を日本人の口に合うようにアレンジし、日本有数の歓楽街であり、地の利のある浅草に持ち込めば必ずヒットするという目論見があったのではないかと推測されます。”


 つまりラ博は、来々軒のラーメンは日本人向けに「豚臭さ」と「脂っこさ」を取り除いた淡白な味であったと推測しているのです(あくまで推測で証拠はないようです)。

 ところが植原路郎によると、大正7,8年の来々軒のラーメンの”豚肉からとったスープは”相当アブラっこい””濃厚なスープ”(前出)でした。(『食の地平線』 玉村豊男)

食の地平線4


 さらに植原は『明治語録』において

”大釜で豚の骨をグラグラわかせたスープの素は天下一品だった。”

明治語録

と証言しており、来々軒のらうめんのスープはラ博の推測とは異なり、豚臭くて脂っこい物だったようです。

 明治32年生まれ、黎明期の東宝映画で重職を担った森岩雄が初めて来々軒の支那そばを食べたのは、浅草に働き場所を移した大正10年の事でした。

”有名なシナそば屋に「来々軒」があった。ここで生まれて初めて「シナそば」を喰べたが、物凄いあぶら臭いのに驚いたことがある”(『大正・雑司ヶ谷』 森岩雄)

大正・雑司ヶ谷P144

 森が食べた来々軒の支那そばも”物凄いあぶら臭い”ものでした。

 このように実際に来々軒のらうめんを食べた人の印象は、新横浜ラーメン博物館の淡白であったという推論とは正反対。

 明治末期から大正時代の来々軒のらうめんは濃厚な豚骨醤油スープに脂多め、トッピングなしであったと思われます。

明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(下)に続く)

2020年12月31日追記

 『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子)の文庫版には明治44年生まれ、小学校2,3年の時から来々軒に通っていた坂野比呂志さんの以下の証言が載っています。(私が所有しているハードカバー版『にっぽんラーメン物語』には載っていません。)

”坂野さんは大人になってからも足繁く来々軒へ通っている。”
”「来々軒のラーメンは麺が太くてあっさりした味だったよ」 ”

 ただし、いつ頃の来々軒の味なのか、子供の頃から味は変わらないのか、についての情報はありません。


2021年3月6日追記

 明治、大正時代の話ではありませんが、映画史研究家の御園京平が昭和6年に来々軒で食べたラーメンのトッピングは、”ぶつ切りにしためんまと細切りチャーシューを煮込んだもの”でした。

”見終わった後、”来々軒”という店でラーメンを食べた。十五銭とふつうの店より高かったが、いまだにこの来々軒以上においしいラーメンにはお目にかかったことがない。和風のどんぶりに入れた麺の上に、ぶつ切りにしためんまと細切りチャーシューを煮込んだものを、麺が隠れるくらい山盛りに入れる。スープの味、香りともに天下一品。僕の浅草行きの楽しみは、活動とじつにこの来々軒のラーメンにあった。”(連載33 僕の活動写真見物 御園京平 『アサヒグラフ1997年10月3日号』)

 来々軒三代目の尾崎一郎の語るラーメンと、実際に食べた人の証言は、様々な点で異なるようです。